貴方といきたい、
そう望んでしまったのだ。

 またひとつ、彼との思い出がマインドパレスから音を立てて消えていった。がらがらと、聞こえるはずのない音がマインドパレスに木霊する。次いで不快な警告音、再建不可能、エラーメッセージ。止めようのない崩壊。
 私は彼の、何を忘れたのだろう。それすらも分からない。

「あんた、なんで笑ってるんだよ!」

 涙を零しながら、彼は、レストレード警部は――ああ、よかった、まだ覚えている。グレッグ、グレッグだ、彼の名前は。彼と二人きりのとき、私は彼をそう呼んでいた。そう呼ぶ仲になっていた。
 グレッグは私を抱きしめてくれた。私の肩口が濡れていく。――ああ、そんなに泣かないでくれ。

「俺との思い出はいらない? 消えて清々してるのか? あんたの邪魔だったのか?」
「違うよグレッグ、それは違う」
「じゃあ何で!」

 彼が私を抱きしめる力が強くなる。私の笑う理由が、彼には分からないらしい。
 そうだろうとも。自身の基盤を成す記憶というものを喪うことを、恐れない者などそう多くはない。ましてや笑うなどということは。
 現代の奇病、愛しい人との思い出が消えていく病。思い出、つまりは記憶だ。病の原因、治療法ともに不明。初症例の報告は、たしか日本だったか。
 たとえかの国が島国であろうとも、国際交流の盛んな現代において、他国への感染を防ぐことができるはずもない。半年前、英国においても発症が確認された。
 そして、ありとあらゆる感染対策を講じてきた私もとうとう、この病を発症した。一か月前のことだった。
 愛しい人との、つまりはグレッグとの思い出を、記憶を、私は忘れつつある。きちんと、彼だけの記憶が消えていく。がらがらと音を立てて、マインドパレスの一角が――大事に、大切に、守り続けてきたその部屋が――崩壊していく。
 最初こそ怯えていたのだ、このマイクロフト・ホームズともあろう男が。けれど思い出が消えていくにつれて、私は安堵した。
 ああ、よかったと、思った。

「証明できると思ったんだ」
「……何を?」
「君を、愛しいと思っていることを」

 グレッグが息を呑む音がした。――この病は、“愛しい人”との思い出を奪う病である。

「君との思い出が消える。それはつまり、私が心の底から、君を愛しいと思っていたことの、何よりの証明じゃないか」

 最初こそ怯えていたのだ、このマイクロフト・ホームズともあろう男が。――消える思い出が、彼とのものではないかもしれないことに。
 けれど病はきちんと、彼との思い出を奪ってくれた。

「私は君を愛している。――この病に奪われてしまうほどに、愛している。愛おしいと思っている。大嘘つきの私が吐く百の言葉よりも雄弁に、この病は君に愛を囁いているというわけだ」

 どうかな、グレッグ。
 君は、この気持ちを理解してくれるだろうか。

「私は、君を、愛している」

 彼は、何も言わなかった。私の肩に顔を埋めて、小さく震えていた。鼻をすすり、子供のように――あるいは大人のように――声をあげずに、しゃくりあげている。

「グレッグ、グレッグ、ゆっくり息を――」
「分かってる!」

 そう怒鳴った彼は、勢いよく顔を上げた。彼は私を睨みつけ、荒い呼吸を繰り返しながら、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。

「置いて、いくのか、俺を! 忘れられた、俺は、どうすりゃいいんだよ!」

 その言葉に、私はほとほと困ってしまった。
 考えていなかったわけではない。ただ、こうも真正面から彼に問われてしまうと、どうしたって――苦しい。
 そう、苦しい。困っているのではなく、私は苦しいのだ。心の、奥の、奥底が。
 身勝手にも彼を忘れてしまう、私の方はいいだろう。けれど彼は、私との思い出を抱えたまま生きていくことになる。彼がシャーロックに事件の調査を依頼し続ければ、記憶を失った私が彼に、再びシャーロックの監視を頼むのは時間の問題だ。
 そうして彼は私と対峙する。10年前のように。私と愛し合った記憶を持ったまま、人を見下ろし、そして見下す私と、彼は対峙することになる。“アイスマン”、“南極大陸”――名実ともに氷の男だった、私と。

「いっそ――」

 彼は、消え入りそうな声で呟く。

「俺も、その病気だったらな」

 グレッグの言葉が、私の肩口を濡らす涙のように、私の心に染み込んでいく。――そうだな、グレッグ。
 お互いに忘れあえたなら、いっそ最初から何も無かったことになれば。
 それはハッピーエンドではないけれども、決してバッドエンドでもないだろう。
 なぜなら、その先には可能性がある。もう一度、互いが互いに惹かれ合う、そんな可能性があるかもしれない。同じような道を、けれど決して異なる道を、我々はもう一度、辿ることができるかもしれない。
 だがそれは、君が私を覚えているのでは訪れない未来だ。――あの頃の私は、自身に好意を抱いてくる、すべての人間を遠ざけていた。
 彼らを金魚と蔑み、自身の周囲に堅牢な壁を打ち立てていた。それは、君とこのような関係になる過程においても大きな障害として我々の前に立ちはだかっていた。
 だからもしも、我々がもう一度寄り添うためには。――君も、私を忘れなければならない。
 フラットな関係に、戻らなければならない。
 何度も考えた。私を手招くその可能性に賭けてみようかと、何度も考えて、しかしその手を取れずにいた。
 だが、グレッグ。――君が、それを望むなら。
 たとえその意図が私とは異なれども、私と同じ病になることを、心のどこかで願ってくれているのなら、私は、その手を取ろう。
 なによりも私は――君に、これ以上苦しんでほしくはないのだ、グレッグ。
 私は彼に手を伸ばし、そっと、涙に濡れた彼の両頬を包み込んだ。頬に残る涙の跡を、今なお流れる涙を親指で撫でて、私はそっと彼の目尻に口付けた。その拍子にほろりと零れた彼の涙が私の唇を湿らせる。
 それを少しだけ口に含む。そうしてそのまま、私は彼の唇に自身のそれを合わせた。とめどなく彼の目から涙が溢れている。――すまない、グレッグ。
 すまなかった、グレッグ。ずっと、苦しめていたね。
 やはり私は君を苦しませたくはない。随分と悩んだが、それでも、これがきっと最良だ。――互いに、忘れよう。

 グレッグ。
 我々の関係を、もう一度始めよう。

 同じ出会い方をしたとしても、同じ感情を抱くとは限らない。我々のこの関係は、これまで積み上げてきた過去の出来事のうえにあるものであって、その再現はできない。それがどうしても恐ろしくて、その手を選べなかった私だが、もう、覚悟は決めたよ。――未来の私を、信じることにしたよ。

 未来の私も、きっと君を愛することになるだろうと。
 きっと君とともに生きることを願うだろうと、信じることにしたよ――

 病の原因は不明、治療方法も不明なこの病。しかし、その感染経路はいくつか判明している。
 そのうちのひとつを、私は口に含んで彼に深く口付けている。私の唾液とともに彼にそれを飲み込ませようと舌を動かせば、彼はそれに抗うことなくそれをこくりと飲み込んだ。それを確認して、そっと唇を離す。

「愛してるよ、グレッグ」

 だから――全てを、忘れてくれ。
 私のことを、何もかも。
 私たちがもう一度、ともに生きるために。


***


「あなたが、あの噂に名高いレストレード警部ですね?」
「噂に名高いかは知らんが、レストレードってのはたしかに俺のことだよ。……あんた、誰だ?」



貴方といきたい、そう望んでしまったのだ。【完】