では契約通り、小切手を。
その日、CAMグローバルニュース社に緊張が走った。
「……ボス?」
マグヌセンから求められた資料を手に彼の執務室へと戻ってきたジャニーンが目にしたのは、椅子に座る男の姿。
CAMグローバルニュース社のCEO、チャールズ・アウグストゥス・マグヌセンが、自身の執務室で椅子に座っている。そこだけを見れば、何もおかしなところはない。
おかしなところがあるとすれば、それは彼が俯いていることだ。
「…………ボス?」
デスクワークが主であるマグヌセンは、その業務のほとんどをラップトップを使用して行なっている。執務室に入り、デスクに座る彼と向かい合う形になれば、まず間違いなく彼の顔は目に入る。表情を読みとることができる。
しかし今、彼は俯いている。かくりとその首は前に折れ、表情を窺い知ることはできない。
ジャニーンの再度の呼びかけに、マグヌセンはぴくりとも動かなかった。
(――もしかして)
ジャニーンは慌ててマグヌセンへと駆け寄る。それとほぼ同時に、マグヌセンの体はデスクへと突っ伏した。ごん、と彼の額がデスクにぶつかる。腕はだらりと力なくデスクの下に伸びていた。
「ボス!」
ジャニーンの鋭い声が執務室に響く。その声を聞いて、扉の外で待機していたセキュリティが慌てて部屋の中へと飛び込んできた。そして、雇い主の姿に息を呑む。
「一体何が!?」
セキュリティは叫び、雇い主の姿を観察した。――見たところ出血はない。服装も乱れていない、少なくとも外部からの攻撃ではない。デスクの上にあるコーヒーは、まだ手をつけられていないように見える。飲食による毒ではない。では病気か? 心臓発作、脳梗塞――セキュリティの知っている限りの病名が頭に浮かぶ。それらのどれなのかなど、セキュリティには分からない。
「嘘でしょ……」
そう呟いたジャニーンは、しゃがんでマグヌセンの顔を覗き込みながら必死に彼の背中を叩いていた。――ちょっと待て、もし彼が脳や心臓の病気で意識を失ったのなら、その対応はまずいのではないのか。
「待ってください、意識を飛ばしている病人にその対応は――」
「病人? 彼のどこが!」
「は?」
きょとんとした顔でジャニーンの顔を見つめているセキュリティをよそ目に、彼女はさらに背中を叩く強さを増していく。
「……あ、あの、ジャニーンさん?」
鬼の形相で主の背中を叩き続ける個人秘書に、セキュリティは若干恐怖を感じた。セキュリティからの呼びかけに、彼女は答えない。マグヌセンも、彼女の呼びかけに答えない。ただ彼女に揺さぶられるがまま、叩かれるままである。
いつまで経っても動かない彼に、とうとう彼女は叫んだ。
「私の定時1時間前に寝てんじゃないわよ、このハゲー!」
――は?
セキュリティはジャニーンとは反対側に立ち、そこでようやくマグヌセンの顔を覗き込んだ。
――すやぁ。
そんな効果音が聞こえてきそうなほど穏やかに、マグヌセンは眠っていた。女性の力とはいえ、思いきり背中をばしばしと引っ叩かれているにもかかわらずだ。
にわかにジャニーンが立ち上がる。
「ありえない! 私、今日デートなのよ? 今からこいつの夜の予定を調整してたんじゃ間に合わないじゃない! 起きて、ほら、起きなさいよ! 夜に会合があるんでしょう!」
耳元で叫ぶ作戦に変更したらしい。そしてそれも功を奏さないとみるや、彼女は秘書室からシンバルを持ってきた。
「……え、シンバル?」
じゃーん、じゃーん。
セキュリティの困惑をよそに、ジャニーンは真顔でシンバルを叩いている。耳元で大音量が流れているにもかかわらず、やはりマグヌセンはぴくりとも動かなかった。――いやこれ、もう死んでいるのでは……?
「なんでこんなに起きないのよ、この男! サバンナで生きていけないわよ!」
――いや、彼はサバンナで生きていく予定とかないと思うんですが。
目の前で行なわれている非現実的な、少なくともこの執務室において行なわれる行為としてはきわめて非現実的な光景に、セキュリティの目はどんどん遠くなる。――何を見せられているのだろう、というか自分は何をすればいいのだろう。
とりあえず、マグヌセンは死んでいるのではなく、また死に瀕しているわけでもなく、ただ眠っているだけようだ。そしてジャニーンは、なんとかして雇い主を起こそうとしているらしい。
しばらくの間、ジャニーンは懸命にシンバルを叩き続けていた。しかしそれさえも彼を起こすことができないと悟ったのだろう。彼女はがくりと膝を折り、力なく俯いてしまった。
「もう……もう、仕方ないわ……彼が一度寝たら起きないってことは、彼との雇用契約書にも書いてあったもの……」
――自分の契約書にはそんなことは書かれていなかったような気がする。セキュリティは契約書の内容を思い返してみた。そして改めて、そんなことは書いていなかったと思う。時に命をかけて雇い主を守らねばならない仕事柄、契約書の内容をセキュリティはきちんと覚えていた。
「……ど、どうします?」
セキュリティの問いかけに、ジャニーンは幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。
「……どうもこうもないわ。やるしかないのよ、こうなった以上は」
ポケットからモバイルを取り出し、その画面の上を細い指が往復する。どこかにメールをしているようだ。おそらく、今晩デートをする予定だった彼氏に向けたものだろう。メールを送り終えた彼女の瞳が、悲しげに伏せられる。よほど楽しみにしていたデートだったらしい。
しかし次に目を開けたとき、その瞳にはもはや悲しみなど欠片も残っていなかった。
「契約は確実に履行してもらうわよ、ボス……」
静かな声だった。
しかし、確かに荒れ狂う怒りを滲ませる声だった。
「――絶対に。絶対に、引き下がらないわよ」
そう呟いて、決意を固めたジャニーンのそれからの行動はとても早かった。憎々しげにマグヌセンの頭をシンバルの角で叩いたあと、モバイルを操作しどこかへと電話をかけ始める。それでもマグヌセンは目を覚まさなかった。シンバルの角で叩かれるのは、なかなかに痛いと思うのだが。
さて自分はどうしたものかと、セキュリティはしばしその場で立ち尽くす。そして、とりあえず雇い主をペントハウスの寝室へとお連れするのが今日の最後の仕事だろうと結論づけた。ジャニーンに思いきり叩かれていた背中と頭も、一応冷やしておくことにした。今更意味がないような気もするが、しないよりはマシだろう。
マグヌセンとジャニーンとの間で交わされた契約書の、その履行内容はいったいどういったものなのかを聞いてみたい気もしたが、触らぬ神に祟りなし。正当な理由で怒っている女性ほど怖いものはないと、セキュリティは早々にマグヌセンを連れて部屋をあとにした。
***
翌朝。
マグヌセンの執務室で当日の予定を伝え終えたジャニーンが、にこにこと笑いながら彼に両手を差し出したのをセキュリティは見た。
それに対して、若干気まずそうな顔をしつつも一枚の紙を渡した、マグヌセンの姿も。
では契約通り、小切手を。【完】