がんじがらめの過去の先

 マイクロフトの向かいのソファーで、一人の男がにこにこと笑っている。しかしその表情とは裏腹に、細められた目には嘲りが浮かび、マイクロフトが視線を逸らそうとすることを決して許さなかった。――いったい、何が起こっている。
 内心に渦巻く困惑を隠しながら、マイクロフトは目の前の男を“観察”する。これまで幾度となく言葉を交わし、契約を交わしてきた“ビジネスパートナー”。最後に出会ったときと、なんら変わらぬその様相。――それこそが異常であると、マイクロフトは分かっていた。


***


 その知らせがマイクロフトの元へと届いたのは、三時間ほど前のことである。
 その日は特に大きな事件もなく、弟であるシャーロックも比較的、大人しくしていたようだった。借りているフラットで薬品を軽く爆発させてはいたが、マイクロフトからしてみれば想定の範囲内である。フラットメイトにとってはそうではなかったようだが。
 同居人の非常識を咎める声を流しながらラップトップの電源を切る。定例監視を終えたところで、アンシアが業務の終了を告げた。もう日付も変わろうとする時間であった。
 マイクロフトはひとつ頷いて、彼女に帰宅許可を出した。それを受けて一礼をしたアンシアが、マイクロフトに背を向け、部屋の扉に向かって歩き出す。――そのときだった。
 マイクロフトのモバイルが、静かに震えた。――着信だ。
 その音を聞いたアンシアが、ぴたりとその歩みを止め、マイクロフトに向き直った。その手には既に、いつものモバイルが握られている。――こうした時間に、否、こうした時間だからこそ、業務が追加されることはよくあることなのだ。彼女はそれに備え、いつでも動けるよう、静かにその場に立っていた。
 アンシアがいつでも動ける状態であることを確認し、マイクロフトはモバイルに表示された番号を見る。そしてその番号を見たとき、マイクロフトは意図せず片眉を上げた。
(……“ラブ”?)
 こんな時間に、コードネーム・ラブ――エリザベス・スモールウッドから電話がかかってくることなど滅多にない。かかってくるときは往々にして、この国に不利益がもたらされるときである。

「アンシア、少し待機してくれ」
「かしこまりました」

 今この瞬間にも鳴り響き続ける着信音に、マイクロフトの疑念は確信の域にまで達していた。――何かがあったのだ、この国に。私がいなければ対処できないような、何かが。

「ホームズだ。何があった」
《緊急事態よ、それもとびきりの》

 彼女の息は荒く、恐怖にひきつっているのが分かった。電話口の先からわずかにハイヒールの音が響いている。彼女は自宅の廊下を早足で歩いているらしい、その焦りは最高潮のようだった。

「いったいなにが」
《マグヌセン》

 スモールウッドからの言葉に、マイクロフトは息を呑む。――マグヌセン。
 半年前のクリスマスの日に、シャーロックが撃ち殺した男。せめてもの情けで彼の母国が信仰する宗教によって弔われ、今は集合墓地の一角に眠っているはずの男。
 その彼がどうしたというのか。死後に発動する罠でも仕掛けていたのか。この私が見落とした? マイクロフトの頭脳は目まぐるしく回転する。
 滅多に動揺を表に出さない主の珍しい姿に、アンシアは身を固くして指示を待っていた。――何だ、何が起きたのだ。私のボスをここまで動揺させうる問題とはなんだ。
 通話の先から聞こえてきた靴の音が消える。彼女が立ち止まったのだ。呼吸を整える音が数秒続き、そして彼女の口から発せられた言葉は、マイクロフトの思考を一時的とはいえ凍らせるのに十分なものだった。

《死んだはずのマグヌセンが、彼の所有していた会社の入口に現れたわ。――上層部はパニックよ》


***


「どうされました、ミスター・ホームズ。まるで幽霊にでも出会ったかのような顔をして」

 問いかける男は、わざとらしく眉根を寄せた。心配そうな表情は、ともすれば本物のようにも見える。しかしそれにマイクロフトが騙されるわけもない。すぐに見破られると分かったうえでのその行為は、わずかではあってもマイクロフトの感情を逆撫でするには十分すぎた。おくびにもそれを表に出すことはしないが。

「失礼しました、ミスター・マグヌセン。最近、全く貴方の姿が見えませんでしたので。――お元気そうで、なによりです」

 言外に含まれた意図に、マグヌセンが気付いていないはずがない。しかし、彼の表情に変化はなかった。氷のような視線が、作られた笑みとともにマイクロフトを貫くだけだ。



 スモールウッドから連絡を受けたマイクロフトがまず行ったことは、情報収集だった。うかつにマイクロフト直属の部下を動かすわけにはいかない。その情報が英国に仇なす何者かによる偽情報の可能性もある。マイクロフトの存在を、表に悟られる訳にはいかない。
 確かにマグヌセンは身体的な特徴を多く持つ男であったが、同じような特徴を持つ人間は、それこそ北欧に数えきれないほどいる。そして彼が自社の入口にいることを確認したのは、スモールウッドの情報が正しければ、マイクロフトが電話を受けた、その三十分ほど前のことだ。つまり、夜中の目撃証言。当然、その精度は通常よりも落ちる。
 そもそも、マグヌセンを目撃したと証言した者は誰なのか。信用がおける者なのか。裏はないのか、この情報が流れることで得をする存在は?
 並行して、マグヌセンの現在位置を確認する。なんと彼は英国政府の任意同行に抵抗なく応じ、現在は然るべき場所に“保護”されていた。
 その情報を受け、マイクロフトは確信したのだ。――この厄介事は、この国だけで済む話ではない、と。



「いったい、今までどちらに? 心配していたのですよ」

 とんだ茶番だと思いながらも、マイクロフトは目の前の男に問いかける。彼がどこにいたかなど、マイクロフト自身がよく知っている。彼を土の下に埋めたのは、他ならぬこの国であり、マイクロフトなのだから。
 マイクロフトからの問いかけに、マグヌセンは「ああ、」と呟いて、ことさらゆっくりと足を組みかえる。

「少し、旅行に出かけていましてね。ええ、淋しい国でしたよ」

 ――暗くて、熱くて。

「地獄というものがあるならば、それはきっと、あのような世界なのでしょうね」

 口角だけを上げるマグヌセンの笑顔は、先ほどからぴくりとも動かない。変化のない笑顔は無表情と同じである。
 マグヌセンと“ビジネスパートナー”となってから早数年、彼がマイクロフトの前でこのような表情をするところは、一度も見たことがなかった。しかしそうした過去の経験が、この場においてなんの役に立つだろうか。今やもう、これまで否応なく築き上げてきた二人の関係は破綻している。
 恐喝される被害者であったマイクロフトは、殺人者を弟に持つ加害者に。
 そして恐喝する加害者であったはずのマグヌセンは、殺害された被害者に。
 見事に逆転したその関係を利用しない男なら、そもそもマイクロフトはマグヌセンの処理に手を拱くことなどなかったのだ。

「まあ、そんな話はどうでもいいではありませんか」

 ねえ? 小首を傾げてマグヌセンは言葉を続ける。

「私がどこに行っていたのか、貴方が一番よく知っているでしょう? ああ、貴方の弟君の方がもっとよく知っているはずですね」

 そう言って、彼はマイクロフトから視線を外した。入室して以来、一度も外されなかった視線が窓の外へと向けられる。つかの間の夏空が四角く切り取られたそこに、マグヌセンは音もなく立ち上がり近付いていった。意図せず詰めていた息をそっと吐き、マイクロフトはいつにも増して注意深く観察する。どこか遠い目で、外の景色を眺めている窓際の男を。
 マイクロフトの不躾ともいえる視線にも気付いていない様子で、マグヌセンは囁くような声で話し出した。

「熱かったですよ、本当に。あの国にいつかまた、行かなければならない日が来ると思うだけで胸が苦しい……不老不死を求め水銀を飲んだとされる、極東の皇帝の気持ちも分かるというものです」

 この関係を利用して行われるであろう彼からの要求は、マイクロフトの想像する限りで5つある。そしてそのどれもが、事実上、この国の決定権をマグヌセンに引き渡すようなものだった。
 それだけは避けなければならない。何としても。女王に忠誠を誓い、この国のために生きると決めたその日から、それだけは許されない。たとえ何を犠牲にしようとも。
 たとえ誰を、犠牲にしようとも。
 覚悟を決めたマイクロフトが口を開こうとした、そのときだった。タイミングを見計らったかのように、マグヌセンが先に口を開いた。

「ミスター・ホームズ」

 窓の外を見ながら呼びかけるその声に、マイクロフトは違和感を覚えた。――ここで聞くであろう声色は、マグヌセンの言葉に含まれるであろう感情は、マイクロフトを、ひいては英国政府を嘲笑うものであるはずだ。殺し損なったそのツケを支払うことになる我々を、今度こそ手中に収めんとする、勝者の悦びに満ちたものであるはずだ。
 そうであるはずなのに、どうだ、今の彼の声は。――何故そんなにも、お前は緊張している?
 マイクロフトに呼びかけた彼は、そっと窓際から離れ、再び席へと戻ってきた。マイクロフトの向かいの席。柔らかなソファーに身を沈め、彼の瞳はまっすぐにマイクロフトを射抜いた。

「――依頼を、したいのですよ」

 そう言って、マグヌセンは自身の唇を舐めた。下卑た意味はそこに含まれていない。人が緊張したときによくする仕草のそれだった。――緊張、そう、やはりマグヌセンは緊張している。これから先に紡ぐであろう言葉を、言い淀んでいる。
 そもそも、依頼とはどういうことなのか。
 恐喝でもなく、互いに利のある交渉でもなく――依頼。これまで何度か話をしてきたなかで、もっとも穏やかな言葉。依頼というからには、マイクロフトとマグヌセンの立場は対等ではなくなる。依頼を受任するか否かの決定権がマイクロフトにある以上、パワーバランスはマイクロフトに傾いている。
 本来ならマグヌセンが持っていたはずのこの場の主導権を、あろうことかマグヌセンはマイクロフトに渡したのだ。おそらくは、意図的に。それはマグヌセンが窓際に立つ前、これまでのようにマイクロフトを睨めつけていたことから分かる。……彼は何かしらの意図を持って、このパワーゲームから降りたのだ。
 不気味、というよりは不可解であった。これまでの二人の間にあったのは巧妙な探り合いであり、それを崩すことはどう考えても悪手である。――何を考えている?
 マグヌセンはマイクロフトの言葉を待っているようだった。まっすぐにマイクロフトを見ていたはずの瞳はわずかに伏せられ、あてどなくさまよっている。マイクロフトが何も言わなければ、この沈黙は続くだろう。

「……私に?」
「……貴方にも、貴方の弟君にも」
「弟にも?」

 ――いよいよ、きな臭い話になってきた。マイクロフトは手の内にある傘の柄をわずかに握りしめる。

「お言葉ですが、ミスター。弟でも調べられることは、私でも調べることができます。わざわざ依頼を二人に分ける必要はない」
「それくらい切羽詰まっていると、解釈していただいてかまいません」
「…………」
「むしろ本命は、シャーロック・ホームズへの依頼です。――私を殺したのは、彼ですから」

 最初に行なわれたお粗末な茶番劇を、マグヌセンがひっくり返す。回りくどい話は無しだと言いたいらしい。

「だからこそ、依頼をしたい」
「……いったい、何を、彼に依頼するおつもりで?」

 マグヌセンが、乾いた咳払いをした。場を切り替えるためのそれでもなく、喉を痛めているときのそれでもなく――緊張して口が乾いている人間が、声を出す前準備に行なうそれ。
 何度か咳払いを繰り返し、準備が整ったらしいマグヌセンが、ことさらゆっくりと、口を開いた。


「――私が甦った、その真相を、解き明かしてもらいたいのです」


がんじがらめの過去の先【完】