指先の口付け、魅惑の証明

 “歩く英国政府”とさえ称されるマイクロフトと、第三の権力とも呼ばれるマスメディア業界を牛耳るマグヌセン。
 その二人の休みが重なることは滅多にない。今日は、その滅多にない機会が訪れた日であった。
 そして、そんな日の暮らし方は大抵決まっている。そうなる主な理由はマイクロフトの強迫症に近い日々の決まりごとに沿う形になるからだが、マイクロフトもマグヌセンも、突然の連絡を受ければ家を飛び出さなければならない立場である。そうなれば自然と休日の過ごし方も決まってくるので、マグヌセンは特に気にしていなかった。騒がしいのは仕事の間だけで十分であるとマグヌセンは思っている。
 今日も今日とて、二人はいつも通りの休日を過ごしていた。マグヌセンはソファーに、マイクロフトはその向かい側に。各々好きな本や雑誌を読んでいる。規則正しいようにみえて、見る人が見ればのんびりと過ごしていることが分かる、そんなゆるやかな時間だった。

「なあ、“マイキー”」

 マグヌセンが、読んでいた雑誌とともにごろりとソファーに寝転がり、マイクロフトを呼んだ。その呼び方に、マイクロフトは小さくため息をつく。

「その呼び方はやめろと、何度も言ったはずだが」
「そうだね、ところで“マイキー”」
「聞いてないな?」

 マイクロフトは読んでいた本を閉じ、マグヌセンと向かい合う。対するマグヌセンの顔は、読んでいる雑誌に遮られ見えないわけだが、マイクロフトは表情以外のすべてを観察し、彼が自分に、何かしらの『お願い』をしようとしていることに気付いた。
 そもそも彼がマイクロフトのことを“マイキー”と呼ぶのは、基本的に何かしらのお願いがあるときだけだ。それも、マイクロフトにとってはあまり良くない話の。
 マイクロフトは一瞬、“マイキー”と呼んでくる彼に対して“チャーリー”と呼び返してやろうかと思った。ただの意趣返しである。
 だが、本題はそこではないのだ。なのでひとまずこの問題は横に置いておくことにした。話が終わり次第、『人の名前は正確に呼ぶように』と、彼に言い聞かせるつもりである。

「なんだ、チャールズ」
「んー……頼みたいことがあってね」
「それは分かっている。なんだ?」
「ん」

 マグヌセンは、手に持っていた雑誌の中身をマイクロフトに見せて言った。

「ペディキュア、塗ってくれないか? 私の足に」
「……は?」

 開かれた雑誌のページには、様々な色のネイルボトルが所狭しと載っていた。マイクロフトが珍しくぽかんと口を開けているのを気にもとめずに、彼は1ページずつ、マイクロフトが覚えるか否かの絶妙なタイミングで雑誌を捲っていく。

「これだけあるんだが」
「20種類」
「そう。どれがいい?  さる新聞社のオーナーは、白い肌には赤い色が映えるから好きなのだそうだ」

 再び雑誌に目を落としたマグヌセンを見つめながら、マイクロフトは想像した。――マグヌセンの、あの透けるような白い素足。
 その爪に赤い、血のような赤を塗る――

「そのオーナーとは気が合いそうだ」

 マイクロフトは大きくひとつ頷き、しかし聞き覚えのない言葉に首を横に振る。

「……違う、そうじゃない。――オーナーとは?」

 新聞社のオーナー、というからには、相手はマグヌセンの手がけるビジネスの取引相手なのだろう。
 そして、そのオーナーとやらと“普通の”交渉をしていれば、足の爪に塗るペディキュアについて、相手の好みを把握する必要は無い。当然、取引相手に見せるものでもない。
 マグヌセンにそうした趣味があるという情報はなかったし、今の様子を観察するかぎり今もその趣味はないようだが、もしも気まぐれに爪に色を塗りたくなったのなら、自分の好みで選べばいい。
 しかしマグヌセンがそれをしなかったということは?  オーナーの好みをマイクロフトに伝えたということは? ――導き出される答えに、マイクロフトの視線が鋭く、冷たいものになる。

「そう睨まないでくれ」

 マイクロフトの鋭い瞳に、マグヌセンはからかうように笑った。

「私たちが追っている組織があるだろう?」
「ある。それが関係を?」
「私の得た情報が正しければね」

 肩を竦めてそう言ったマグヌセンに、マイクロフトはふむ、と頷いた。

「君が得てきた情報なら正しいだろう。――それと君がペディキュアを塗ることに、いったいなんの関係が?」
「ちょっと待ってくれ」

 話を先に進めようとするマイクロフトだが、ほかならぬマグヌセンがそれを止めた。
 彼はわずかにその目を丸くしながら、マイクロフトに問いかける。

「そんな簡単に信じていいのかい」
「君が得てきた情報に誤りはない。他ならぬ君がそれを売りにしてきただろう。そして私もそう思っているから、君を私のビジネスパートナーにした。何か問題が?」
「――いいや、ないよ、マイクロフト」

 そう言って、マグヌセンは自分とマイクロフトとの間に雑誌を挟んで再び顔を隠した。――マグヌセンがシャーロック・ホームズに、唯一礼を言いたいときがある。まさしくこんなときだ。
 死ぬ前には聞くことなど想像だにしていなかった、マイクロフトからマグヌセンに対して向けられる、信頼を置く言葉。
 シャーロックに殺されて、何が起きたか分からぬままに甦り、マイクロフトと暮らすことになったこの数年間。死ななければ得られなかった時間と、その中で得られるようになった言葉たち。
 ほんのり赤くなった顔を雑誌で隠しながら、マグヌセンは咳払いを一つして口を開く。

「オーナーとは、大陸の方でメディア王をしている男のことだ。時々私にちょっかいをかけてきて大変腹立たしかったのだが、君も知っている通り、メディア業界は広いようで狭いのでね。なにより、邪険にするには彼の地位は魅力的だったから、一定の交流は続けていたんだ。しかし――」
「しかし?」
「その男が、我々の追っている組織に情報提供をしているようだ。それが英国政府の作戦の邪魔をしている」
「……なるほど。そこにメディア業界の人間として、君自身が潜入しようと?」
「怪しくないだろう? これまでも何度も参加してきたパーティーに、今回も参加するだけだ。……普段とは異なる参加方法にはなるが」
「具体的には?」

 仕事の話をしている間にマグヌセンの心は落ち着いてきたが、雑誌を横に置こうとは思えず、彼はそのまま話を続けることにした。
 羞恥心ゆえではなく、今から言う内容の、その気まずさゆえに。

「彼はポドフィリアでね。足に異様な興奮を感じる。それも長身の、ともすれば女扱いなんてされないような男に、ペディキュアを塗ってその足の指を舐めるそうだ。そういう人間が集まるサロンが、パーティーの裏で開かれる。――今回は、そちらに招かれてね。そしてそちらで話をする方が、より効果的に情報を得られることは自明だ」

 その言葉を受けて、マイクロフトの眼光はさらに鋭くなった。

「部下にやらせろ」
「イギリス人が小さくて丸っこいのが悪い」
「それはジョンだけだ、イギリス人全員がああだと思うな。私の部下を使え」
「言うまでもないだろうが、ジョンがここにいたら、一発どころか数発殴られるから気をつけたまえよ。……そもそもイギリス人は、正直こういうときに使えない。そういうことができるほど、君たちのプライドは低くないだろう」
「我々はプロだ、部下も含めて。それくらいやってのける。……信用できないのか、私の部下が」

 周囲の人間を金魚だのなんだのと宣うくせに、マイクロフトは自身が選んだ部下たちを馬鹿にするような発言を好まない。この自分が選んだのだから、という自負もあるだろうし、なんだかんだ、心のうちまでアイスマンにはなりきれていないのだ。――だからこそ過去のマグヌセンは、彼に付け入ることができた。
 こうなるから言いたくなかったんだと、マグヌセンは心のなかで愚痴を言うことで、表面上は穏やかに笑ってみせる。

「必要なことじゃないか。そもそも今回の件は、君達が動くと国際的にまずいから私に依頼したのだろう? それに、なにも犯されるわけじゃない。彼にその趣味がないことは調査済みだ」
「――そうだとしても」
「仕事だ。……分かってくれるだろう? マイクロフト」

 我ながら甘ったるい声が出たと、マグヌセンは苦笑する。悔しげに唇を噛んだのはマイクロフトだった。

「その言い方は、ずるいのでは?」
「ずるくないさ。君も――なんだ、いちいち嫉妬するのはやめろ。私達は、その――」
「……? チャールズ?」

 先ほどまでの余裕綽々な口調が嘘のように、マグヌセンは言い淀む。
 その様子に、マグヌセンが今どういう状況にあるかを悟ったマイクロフトは意地悪く口角を吊り上げた。マイクロフトはそっと手を伸ばし、マグヌセンの表情を隠している雑誌をどけようとする。

「どうした、チャールズ?」

 マイクロフトが、雑誌を持つマグヌセンの手に触れた途端、マグヌセンは雑誌を握る手に力を込めた。絶対に顔は見せないという、固い意志が感じられる力の込め方だった。
 マイクロフトはマグヌセンの白い手の甲に指を滑らせながらしばらく思案し、致し方ないとその手を離す。その代わりにと、マイクロフトはマグヌセンに意地悪く問いかけた。

「私達は、一体何なのかな?」
「表情を見ることを諦めてくれて助かるよ」
「憎まれ口を」

 二人は、二人にしては珍しく、小さな声を上げて笑った。笑いの波が収まってきた頃を見計らって、マグヌセンは言う。

「私達は、恋人であるという以前に、ビジネスパートナーだ。なにより、君は“歩く英国政府”。――いざというときは仕事を優先するべきだろう」
「一理ある。だが、そのすべてに賛同はできない」
「……なぜ? むしろ君は、この考え方に賛同すると思ったのだが」
「賛同はしている。すべてに適用できないというだけの話だ」

 マグヌセンは、雑誌からそっと覗かせた視線を向けて、マイクロフトに言葉の続きを促す。

「まず、この話の大前提として――」
「うむ」
「私は君を愛している」
「―――」

 マイクロフトからの突然の告白に驚いたマグヌセンが息を呑んだ気配がしたが、それに構わずマイクロフトは話し続ける。

「だが私は、愛やら恋やらに振り回されることなく、それを抑える術を正しく知っている。だからこれからも英国のために君を利用するし、英国のために君を捨てることもあるだろう。――だが、それを念頭に置き続ける必要はない」
「……と、いうと?」
「私の中で、英国政府の仕事は最優先だ。そして君の優先度はそれ以下だ。これは紛れもない事実だが、それはこの二つが両立できないことと同義ではない。どちらも得られる道を見つけ出すことを、見つけ出そうとする行為を、最初から捨てるつもりはない。……今回は――」

 眉根を寄せて、マイクロフトは言う。

「今回は、この二つを両立することできない――恋人として君の行動をやめさせたいという気持ちと、政府高官として情報収集を依頼したいという気持ちを両立させることはできないが。……今後、同じような事案があったときに、もしも両立できる道があるのなら私は、仕事も君も、ともに優先するつもりだ」

 ――さて。

「こんな告白は、君のお気に召すかな?」
「―――」

 笑いを含んだ言葉の調子に、マグヌセンは内心で毒づいた。――答えなんて分かってるくせに。
 マグヌセンが再び雑誌で顔を隠せば、なんともわざとらしい声が雑誌の向こうから飛んでくる。

「おや? お気に召さなかったかな?」
「……イギリス人らしく、もっと婉曲的な言い方をしたらどうだい」
「だが、この言い方は君に効果抜群だったろう」
「………十分に」
「では――いつになったら、私は君に顔を見せてもらえるのだろうか。まさか、ずっとこのままのつもりで?」

 うってかわって大袈裟に嘆いてみせるマイクロフトに、本当にそうしてやろうかと考えたマグヌセンだったが――やめた。
 お互いに忙しい身であるし、なにより――存外、あの告白はマグヌセン好みだったのだ。
 そして、少しばかり――本当に、ほんの少しばかり――嬉しかったのも事実である。
 ビジネスマンたるもの、己の感情は、たとえそれが認めがたいものであったとしても受け入れなければならないと、マグヌセンは考えている。下すべき判断を、見誤らないためにも。
 マグヌセンがそう思っていることはきっとマイクロフトには見抜かれているし、なんなら次にマグヌセンが言うであろう言葉も分かっているのだろうが、それでも胸の内を言葉にするということの大切さを、メディア業界に身を置く者として、マグヌセンはよく知っている。
 だからマグヌセンはそっと、ほのかに赤くなった目元と耳先を雑誌の向こう側から覗かせながら、消えそうな声で言った。

「……君が私にペディキュアを塗って、それが素晴らしい出来ならば。――今日のディナーは、食べないでおこう」


指先の口付け、魅惑の証明【完】