第1話
レストレードからの要請を受けて訪れたその現場は、小さな困惑とともにシャーロックとジョンを受け入れた。
普段はシャーロックのことを変人と呼び、現場に立ち入らせることを良しとしないドノヴァンでさえ、ほとんど無言で2人を中へと招き入れた。ヤードにほど近い路地裏で発見された遺体、という事実が彼らを混乱させているのだろうか。なぜ近くを歩いていたであろう刑事たちは見つけられなかったのかと? そんなことは残念ながら山ほどあったはずだ、ならば他に理由があるのだろうとジョンは推察した。
「……珍しいな、今回はよほど手を焼いてるのかい?」
2人を現場へ案内するために先を歩いているドノヴァンに、ジョンが少し茶化した声色で問いかける。その言葉を受けた彼女はぴたりと歩みを止め、複雑そうな顔をして2人に向き直った。いつもなら早く現場を見せろとうるさいシャーロックも、今までにないドノヴァンの反応に疑問を抱いているようだ。歩みを止めた彼女の様子を注視している。
「……別にそういうんじゃないはずなのよ。なんだけどね……」
「なんだけど?」
「……警部の様子がおかしいの」
「グレッグの?」
「見た目は普段通りなんだけど……なにか、違うのよね」
レストレードから要請を受けたのだから当然、今回の現場の指揮官は彼である。要請は電話ではなくテキストで行われたため、もしレストレードになにか異変があったとしても気付きようがなかった。だから、今回もいつものような流れで現場の時間が流れていくのだと信じて疑わなかった。
ドノヴァンやアンダーソンに嫌な顔をされながらも現場へと立ち入り、レストレードから数分間の時間を与えられて現場を見て、彼の推理を聞く。ジョンの感嘆、上がる名探偵の口角。そしてタクシーに乗ってベイカー街へ戻る。――いつもの流れ。
しかしドノヴァンや、周りでちらちらと2人の様子をうかがっている他の捜査官の様子を見るに、どうも今回はいつもどおりとはいかないようだ。レストレードの様子がおかしい、現場指揮官の様子がおかしいのなら、確かに現場には困惑した空気が流れることだろう。上司の異変、今回の事件はただの事件ではないのではないかという不安。
ドノヴァンが再び歩き出したのに合わせて、2人も歩みを進める。見えてきた死体の側に、困惑の原因であるレストレードはいた。2人に背を向ける形で死体と対面している。
鑑識官のアンダーソンの姿もあった。レストレードよりも早くシャーロックとジョンの存在に気付いたアンダーソンは、いつものように文句を言おうとしたのだろう、立ち上がり2人の元へとやってきて口を大きく開いたが、すぐに閉じた。そしてそっと背後を振り返り、レストレードの様子を窺うような素振りを見せた。
レストレードは振り向かない。足音でシャーロックとジョンが来たことに気付いているだろうに、彼は振り向く気配を見せなかった。
「警部。2人をお連れしました」
ドノヴァンがレストレードに声をかける。そこでようやく、レストレードは振り向いた。様子がおかしいとドノヴァンが言っていたので、よほどの表情をしているのだろうとジョンは身構えていたが、振り返ったレストレードの表情はいつもとさして変わらなかった。強いて言うなら、少し目の下の隈が濃いだろうか。しかし、それだけで様子がおかしいとはとても思えない。他になにか、彼らが困惑する何かがあるはずだ。
「ありがとう。……アンダーソン、ドノヴァン。それから他の皆も。悪いが、俺が呼ぶまでの間、ここから離れておいてくれないか」
――前言撤回だ、レストレードの様子は確かにおかしい。ジョンはこれまでにないくらいレストレードのことを自分なりに観察してみた。もちろんその精度はシャーロックに遠く及ばないものだが、ジョンなりにつぶさに彼を観察した。
レストレードが部下を現場から追い出すことはよくある話ではあったが、そういうときは基本的に、シャーロックの要請がある。アンダーソン黙れIQが下がる、考えるな口を開くな息をするな。そんな無茶ぶりとともに部下(特にアンダーソン)を追い出すことをレストレードに求め、彼はそれに応える形で部下を現場から追いやるのだ。
しかし今回は違う。シャーロックは何も言っていない。
もちろんこれから言うことになるだろうから先んじて部下を下がらせたと考えてもいいが、なぜ急にそんなことを? レストレードは、自身の部下を信頼している。できることならシャーロックの力を借りずに自身と部下の力で事件を解決したいと考えているし、それゆえ現場から部下を離れさせることにいい気はしていないはずなのだ。パブで彼自身がそう言っていたのだから間違いないだろう。
ならば、なぜ? 一体彼に身に何があったのか。どんな心変わりを?
レストレードの様子は、やはりいつもと変わらないように見えた。確かに顔色は少し悪いが、服のシワや髭の生え方から見ておそらく徹夜明けなのだろう。スコットランドヤードの警部は忙しい。それ以外には、ジョンの目からは確認できなかった。――ただし、目に頼らない彼の直感は、確かにレストレードの異変を訴えていた。
それは戦場で培った、相対する存在の気配察知。――レストレードになにかがあったと、ジョンの直感は告げていた。
捜査官たちが場を立ち去ったことを確認して、ジョンは口を開いた。
「グレッグ、なんかあった? みんな心配してたよ」
「ん? いや、なんでもないよ。ちょっと別の事件が立て込んでてな、眠れてないだけだ。気が立ってる自覚はある、それで変に思われてんだろうなあ」
あとで飯でも奢ってやらないとな――そう言いながらぽりぽりと頭をかくレストレードの姿はやはり普段と変わらなかったが、ジョンの直感は告げる。――何かあるぞ、と。
こういう直感の精度は、戦場でもお墨付きだった。
「まあ、俺のことはどうでもいいだろ? それより今回の事件について説明させてくれ」
ジョンはちらりと、隣にいるシャーロックを見上げた。いつもなら、機関銃も真っ青の早口で観察により得た“事実”を滔々と語るはずの彼が、今回はなぜか口を開かない。極めて珍しい事態だ、どころかただの一度もそんなシャーロックを見たことがなかった。
シャーロックは苦虫でも噛み潰したかのような顔で、レストレードを睨みつけていた。普段よりも鋭い眼光は、おそらくそれこそ普段よりも注意深くレストレードを観察し、より多くの情報を引き出そうとしているのだろう。ほんの数秒見るだけで大抵のことは分かってしまうシャーロックに“注視”されることの恐ろしさはなかなかのものである。一体どれだけのことを観察だけで言い当てられてしまうのか、想像もつかない。
レストレードはそんなシャーロックの様子に苦笑していたが、言わなくてもいいことを歯に衣着せぬ言い方で語るシャーロックが何も言わないのならこれ幸いと、さっさと事件の概要を離すことにしたらしい。
わざとらしい咳払いを一つして、彼は手帳を開いた。
「アメリア・オーブリー。今年で28歳。氏名は身分証で確認。現在、スコットランドヤードに照会中。荷物はここにあるキャリーバッグとショルダーバッグ。ショルダーバッグには携帯と財布、ハンカチにティッシュ、キーケースにパスポート、そして化粧道具が入っていた。金目のものが盗まれた形跡は今のところない。キャリーバッグには2、3日分の衣服とフランス産のクッキーが入っていた。パスポートとこの手土産を信じるなら、フランス帰り。手帳を見る限りではただの旅行、そして実家への顔見せってところだな。帰宅後はそのままロンドンにある自宅に帰る予定だったようだから、帰宅途中に襲われたと見るべきだ。ただし自宅はここから真逆だ、途中で予定変更したんだろう。財布の中にはタクシーのレシートが入っていた、なぜかヤードの前で降りている。理由は分からない、彼女を乗せたであろうタクシーを探しているところだ。死因は背後からの撲殺。尖ったもので後ろから数回殴られて、そのまま亡くなったというのが現在の見立てだ。現場に凶器らしきものはなし、目撃証言も今のところなし。死亡推定時刻は午前2時半から午前4時半。今から8時間ぐらい前だな」
以上。レストレードはそう締めくくり、ぱたんと手帳を閉じた。
「どうだ、シャーロック。観察してわかったことを教えてくれないか」
シャーロックはレストレードが説明を始めた時点で頭を切り替えたのか、手袋をはめて忙しなく遺体の周りを歩き回りながら観察していた。そしてぱっとジョンの方を向いた。検死しろという合図だ。シャーロックと入れ替わりに遺体の側に座り込み、遺体をチェックする。
「うん、確かに死因は撲殺でいいと思う。他に死に至るような大きな怪我も見当たらない」
立ち上がりシャーロックにそれを伝えれば、彼は小さく口を開いた。
「ジョン、死因とは関係ない部分ではあるが、彼女の首元をよく見てくれ」
「首?」
言われて、ジョンはそっと遺体の首元を覗き込んだ。そして気付く。
「うん? 穴が開いてる、2つも」
「針で刺されたんだろう、直径は約3ミリ」
「……まさか毒殺? でも、そうなら、何かしらの痕跡が……」
「そうだ、ジョン」
シャーロックは大きく頷いてみせた。
「もしそうならそれ相応の身体反応があるはずだ、しかしそれがないなら彼女は毒殺ではない。服装と装飾品から見て政府による暗殺を受けるような身分でもないようだから、特殊な薬を用いられての暗殺という線も薄い」
そう言って彼はレストレードへと視線を寄越した。
「さすがにあんたでもこの穴には気付いただろう、グラント。もし気付けなかったならその警部という地位はヤードに返して隠居することをおすすめする」
「グレッグだ。……さすがにな、気付いてたよ、そこまで落ちぶれちゃいない。毒物の可能性も考えて、その検査の準備も進めてるが、まあ……無駄だろうな、お前さんがそう言うなら」
レストレードはシャーロックを見据えた。
「それで? シャーロック。――お前の推理をまだ聞いてない」
レストレードの催促に、シャーロックはふんと鼻を鳴らした。
「ずいぶんと今回は僕たちに協力的だな、グレネード?」
「グレッグだ。俺は手榴弾じゃないぞ。……ジョンからの要請もあったからな」
「……要請?」
シャーロックがじとりとジョンに視線を向ける。レストレードの言葉とシャーロックの視線を受けて、ジョンはここ一週間の記憶を掘り起こした。
「あ」
ジョンは自分でも驚くほど間抜けな声を出した。――そろそろシャーロックが限界だ、なんでもいいから面白そうな事件はないのかと、つい一週間ほど前にレストレードにテキストを送ったことを思い出した。シャーロックの暴走は残念ながらロンドンの治安を乱しかねないことが事実であるので、レストレードはそれを懸念して早くに連絡をくれたのだろう。
「ご、ごめんなグレッグ」
「構わない、立て込んでるって言ったろ? 事件は早期に解決、被害者の遺族も前を向くことができて、俺は別の事件に集中することができる。シャーロックの退屈も凌げる。ロンドンは平和。良いことだらけだ」
肩をすくめてみせたレストレードの様子に嘘はなさそうだった。
警察官としてのプライドもあるはずなのに、あくまで素人で一般人という立場にあるはずのシャーロックの力を借りることを良しとする。誰が解決するかではなく、どれだけ早く解決できるかに重きを置く、誠実で正義感溢れる警察官。ジョンから見るレストレードはそういう存在だった。
ジョンは、難しい顔をしているシャーロックに向き直る。
「シャーロック、そろそろ答えてやれ。なにか分かったことがあるんだろ?」
ジョンの促しに、渋々と言った様子でシャーロックは口を開いた。これも前代未聞だ、彼が受けると決めた事件を前にして、ここまでつまらなそうにしてみせたことは今までになかった。
「……犯人は右利き、身長は大体180センチメートル。これは頭部の怪我の角度から見て分かる。靴と服に付着した泥汚れからして、この女性は一旦犯人と対面し、犯人から逃げようと背を向けた辺りで殴打されて地面に倒れた。しかしその一発では死なず、這ってでも逃げようとしたところにもう一度殴打され、そのまま亡くなった。手の形からして何かを握っていたようだが、まず候補に上がる携帯はバッグの中だ。また手の開き具合から言って厚みのあるものではない、紙、そう、紙だな、それを握っていたんだ。しかし遺留品にそれらしきものはない。その時間、ロンドンの風は強かったから飛ばされた可能性も高いが犯人が持ち去った可能性もある。可能性としては後者のほうが高い、なぜなら昨今メモをするなら携帯でも良いはずなのに、わざわざ紙に書いて後生大事に手の内に収め夜の路地裏を歩いていたならばそれは携帯というハッキングされ放題の端末ではなく自分の手の中にないと安心できないほど重要な情報が書かれていたと考えるべきだし、それを狙って殺されたというシナリオが出来上がる。金目のものが盗まれていないことから金銭以外の目的であることは明白だ、その紙を持ち去ったんだろう。女性がわざわざ路地裏を通ったということは誰かから身を隠していた、追われていたと考えるべきだ、では一体誰から? いつから追われていた? イギリスに帰ってきてからか、それともフランスからか。ヤードの前で降りたなら何か相談でもしようとしたのか? 追われていたと仮定して、その人物から身を守ろうとしたのなら、なぜそのままヤードに駆け込まなかったんだ。彼女はヤードに駆け込まないどころか、人気のない路地裏に入っていった。その行動がいかに愚かしいことか、子供にだって分かることなのに。その情報をヤードに知られるわけにはいかなかったとしても、紙だ、ポケットにでも隠せばいい。……疑問点として僕があげられるのはこれだけだ」
早口でそう言い切ったシャーロックは、いつものようにマフラーを正してみせた。ジョンが感嘆の声を上げる。
「Brilliant! じゃあ、この2つの穴は? 何かの暗号か? 追っていた人物が何かの秘密組織だったとか?」
「情報が足りない。……グレン、この女性についてもっと詳しい情報を調べてくれ、彼女の所属していた団体をすべて! それと彼女のフランスでの動向も」
「グレッグだ。……分かった、何かあればすぐに連絡する」
「何かなくても連絡しろ。……」
「……どうした、シャーロック?」
シャーロックの様子に、ジョンは首を傾げた。
事件の概要を説明する前と同じような表情で、シャーロックはレストレードを睨みつけていた。視線が上へ、下へと忙しなく移動する。レストレードは居心地悪そうに体をもぞもぞとさせ、しかしやがて吹っ切れたように首を横に振った。体感時間で5分ほどの沈黙。ここまでレストレードを注視しておいて、それでも望みの情報が得られなかったらしいシャーロックの表情は険しいままだった。
「……グレッグ」
「おっ、やっと名前覚えたな?」
「茶化すな。……何を隠している?」
「は?」
「シャーロック?」
「いや、なんでもない。……行こう、ジョン。調べなければならないことがある」
「おい、シャーロック! 説明しろよ!」
「行くぞ、ジョン!」
シャーロックはジョンの声などお構いなしに彼の腕を引っ張り、大通りへと進んでいく。
「おいおい、ちょっと……ごめんグレッグ! 気にしないでいいから!」
「お、おう……気をつけて帰れよ……」
シャーロックの急な動きについていけなかったのはレストレードも変わらなかったようで、困惑した表情のまま、遠のいていく2人を見送っていた。その表情に小さな罪悪感が湧く。――ごめんグレッグ、あとできちんと説明できるはずだから!
ジョンを引っ張る力は大通りに出てからも変わらず、さすがにそろそろ痛くなってきた彼はシャーロックの腕を勢いよく振りほどいた。
「痛いよ! ……どうしたんだ、シャーロック」
「…………」
2人は道の端で立ち止まった。人通りが多く、小さな声で話せば周りが気に留めることもないだろう。シャーロックの表情は依然として優れないままだ。
「読み取れない情報があった」
「……君でも読み取れない情報が? グレッグに?」
「ああ。僕にも読み取れない情報が1つだけあった。事件について話しているときにその情報は色濃く彼の態度に表れてたから、今回の事件と何らかの関係性があるものだ。おそらくドノヴァンの言っていたようなあいつの違和感というのは、そこに起因している」
「別件のせいだと言ってたけど」
「別件があることは事実だが、もしそうならその別件と今回の事件は繋がっているんだろう。別件のせいで気が立っている、そのせいで変に思われていると言っていたあいつの言葉に嘘はなかったからな」
「…………」
ジョンの認識しているレストレードは、誠実で正義感溢れる警察官だった。事件解決のために必要な情報ならば、たとえ多少の警察内のルールを犯してでもシャーロックに提供していた。そんな彼が、シャーロックに対して情報の出し惜しみをしているということなのだろうか。もちろん、本来の警察官はそうあるべきだ、一般人に情報を漏洩してはならない、だが今までの経験がある。彼は事件解決のためなら多少の違法は目を瞑る。
しかし、今回に限ってはそうはいかないということなのだろうか。さてはこの事件の背後にはなにかあるのか? ――ジョンの脳裏を過ぎるあの男、シャーロックをして英国政府そのものと言わしめた存在。
「マイクロフトは今回の件に絡んでないだろう」
なんで心の中を読めるんだと聞けば、観察したからだと返ってくるに決まっている。ジョンは一呼吸置いた。
「なら、なんでグレッグは教えてくれなかったんだろう? 事件解決には必要ないと思ったのかな?」
「それを読み取れないのが問題なんだ、ジョン」
シャーロックが再び歩き出す。慌ててジョンも後ろからついていく。
「まずはこの事件を解決する。自ずとレストレードの隠している事実にもたどり着くだろう、あの男が、僕を前にして長く隠し通せるはずがないからな」
自慢げにそう言って見せた名探偵に、ジョンは苦笑した。それを否定する気になれないのは、やはり彼の才能を間近で見続けたからだ。――グレッグ、早く言わないと酷い目に遭うぞ。良いこと悪いこと、どんどん暴露されるぞ。
「それじゃあ、シャーロック。まずはどうする?」
「タクシーを呼ぶ」
「そういうんじゃなくてさ」
「タクシー!」
「ああ、もう……中でちゃんと説明しろよ! いいな!」
***
2人の姿が見えなくなったところで、レストレードは死体の側に座り込んだ。部下たちはまだ呼んでいない。遠くから不安げな視線が向けられているのを背中に感じる。――まだだ、もう少しだけ待ってくれ。
もう少しだけ、彼女と2人きりにさせてくれ。
「確かに受け取った」
手袋をはめた手をそっと、遺体となった彼女の首元へと伸ばす。開けられた2つの穴。――警告。
そして、脅迫。
「すまない、アメリア。……怖かったろう?」
――げに恐ろしきは、人の性なり。
第1話【終】