第2話

 レストレードの様子がおかしい。
 マイクロフトは持っていた資料を机の上に置き、その長い指を組んだ。紅茶はすでに冷めきっている。置かれた資料には、ヤードからの帰宅途中であろうレストレードの写真が載っていた。カメラの方を向いていないことから、その写真が盗撮であることが分かる。そもそも彼のもとに届けられる写真のほとんどは盗撮なのだ、盗撮される側としてはたまったものではないが。
 マイクロフトが“それ”に気付いたのは、レストレードを監視している部下からもたらされる情報に少しずつ穴が空き始めたからだ。マイクロフトは、シャーロックに関わるすべての人に多かれ少なかれ監視をつけている。レストレードも監視される対象の一人だった。彼の監視レベルはそう高くはなく、基本的には監視カメラによるもので、定期的に部下の目による監視も行っていた。今回問題となったのは、部下の目による監視だった。



 ――『一時的ではあるが、グレッグ・レストレード警部を見失った時間がある』。
 一週間前。硬い表情でそう報告する部下に、表にこそ出さないもののマイクロフトは驚いていた。マイクロフト直属の部下は、彼が信用に足ると判断した能力を持つ者のみで構成されている。今はアンシアと名乗る彼女もそうだ。そんな彼らが、一介の警部にすぎないレストレードを見失ったというのか。一体どういう状況で? なぜレストレードは姿を眩ませたのか。
 偶然に偶然が重なりレストレードを見失ったとはマイクロフトは考えない。一般人である彼を、偶然とはいえ見失い、あまつさえそのまま見つけられないなどという人間をマイクロフトは部下にした覚えはないし、マイクロフトは自分自身の見る目を信頼していた。実際にレストレードを見失った状況をつぶさに書き記した報告書を確認してみても、見失うような状況ではなかった。――意図的だ。
 レストレードは意図的に、姿を眩ませたのだ。



「アンシア。彼の監視は続けているね?」
「Yes,Sir. 最高レベルの監視です」
「……彼はそれさえも潜り抜けているというわけだ」

 最初は監視レベルを1つ上げただけだった。これで、レストレードに関する情報は完全に掌握される。シャーロック・ホームズに関わりのある者の情報に、穴があってはならない。ましてやレストレードは、少なからずシャーロックに信用を置かれている人物である。レストレードがなぜ姿を眩ませたのかは依然として調査中だったが、まずは抜けのない情報収集が必要だった。事態はこれで収束を迎えるかに思われた。
 しかし、マイクロフトの予想は大きく外れることになる。
 レストレードは、その後も幾度となく姿を眩ませたのだ。
 そしてその頻度は、監視レベルを上げる以前よりも増えていた。その都度、彼の監視レベルは引き上げられていき、現在レストレードに対する監視は最高レベルだった。ヤードや自宅に監視カメラや盗聴器を仕掛けることはもちろんのこと、ヤードからの帰宅路や行きつけの店、急な出張に海外への小旅行、果ては彼が一度しか訪れたことがないような場所にさえ監視の目は張り巡らされていた。もはやレストレードにプライベートの時間はないといっていい。
 そんな状況下にあるにもかかわらず、レストレードはマイクロフトを嘲笑うかのように姿を眩ませるのだ。監視の目を掻い潜り、いつの間にやら全く離れた場所にいる。
 レベルを引き上げていく中で、レストレードを呼びつけたこともある。マイクロフトはそこで人並み外れた、シャーロックでさえ追いつけないその頭脳と観察眼を最大限に活用してレストレードを観察したが、レストレードに怪しいところは何一つとしてなかった。企みも隠し事もなにもない、ひたすらにマイクロフトに対する疑問だけが彼の周りを飛び回っていた。――俺、なんでこんなことで呼び出されたんだ? テキストじゃ駄目なのかこれは?
 進展しない現状に、マイクロフトは小さく息をつく。

「今後も彼の監視を続けるように。何かあればすぐに報告を」

 そう言ってマイクロフトは秘書を下がらせ、ラップトップを開いた。現在の時間帯から彼の居場所を割り出し、その場所を映している監視カメラの映像を呼び出す。時刻は午後8時、レストレードは帰宅途中だった。
 彼の足取りは軽く、どうやらとても機嫌がいいようだ。ヤード内での監視を担当している部下によると、フランス帰りの同僚から送られたワインに大層喜んでいたらしい。要は浮かれているのだ、家に帰り次第、シャワーもそこそこにそれを飲むつもりなのだろう。イギリスでも買えるワインだというのに、馬鹿な男だ。彼も、彼の同僚も。
 しばらくの間、マイクロフトは監視カメラの映像を見続けた。どんな異変も見逃さないように。しかし画面に映し出されるのは、安物のワインを嬉しそうに抱えて帰宅する草臥れた中年の姿。――今回も収穫はなしか。
 懐中時計で時刻を確認した。次の仕事の時間が迫ってきている、もうすぐこの場所を発たねばならない時間だ。ため息をひとつ吐いて、マイクロフトがラップトップを閉じようとした、その時だった。
 画面の中のレストレードが、ぴたりと動きを止めた。それにつられるように、マイクロフトも動きを止める。レストレードはくるりと監視カメラの方を向いた。それは構わない、犯罪抑制のために意図的に見えるところに設置されている監視カメラだ。レストレードがそれに気付き、そちらの視線を合わせることができても不思議ではない。だが、なぜ急に立ち止まったのか。監視カメラを見上げなければならない理由は?
 なんとも言えぬ感覚が体の奥から沸き起こり、マイクロフトは画面から目を離せずにいた。――何かが、起こる。
 そんな、理屈では説明できない感覚に、マイクロフトは支配されていた。
 レストレードはおもむろに監視カメラを指差す。荒い画像だが、おそらくこの指の形は指鉄砲だ。そうして腕が、彼の口元が、ゆっくりと動いた。――BANG!
 前回、必要もないような報告をわざわざ呼び出してまで行わせたことへの意趣返しだろうか。少し荒い映像の中ではレストレードの表情こそ読み取れないが、おそらく彼は得意げな顔をしていることだろう。画面を注視し続けたことによる目を乾きを潤すため、マイクロフトはぱちり、瞬きをした。
 そして次の瞬間、彼は愕然と目を見開くことになる。

「――!?」

 がたりと椅子から立ち上がり、マイクロフトは何度も瞬きを繰り返した。しかし現実は変わらずマイクロフトの目の前に映し出されている。監視カメラの映像が保存されているフォルダを呼び出し、時間を巻き戻した。一瞬、一秒にも満たないその一瞬で、レストレードは――
 机の上に置かれていたモバイルが振動する。通話ボタンを押せば、焦りを滲ませた部下の声が耳に飛び込んできた。

〈ボス、報告します、緊急事態です。ヤードからの帰宅途中だったグレッグ・レストレード警部が、その、俄に信じがたいことではありますが、姿を消しました。霧のように消え失せました。道を曲がった先にいなかったとか、そんなものではありません。我々が見ているその目の前で、彼は、姿を眩ませました!〉

 ――ああ、見ていたよ。


第2話【終】