第8話

 丸い月が、空に浮かんでいた。
 青い光が、はるか昔に打ち捨てられたとみられる薄暗い廃墟の中へ射し込んでいる。もはや窓ガラスすらない窓枠から、崩れ落ちた天井から、バルコニーから――冷たい月の光は、降り注いでいる。
 そんな廃墟の中――かつては応接室として扱われていたと思しき一室に、3人はいた。座れるような家具はない。あったとしても、彼らは使わなかっただろう。

「――マイクロフト」

 マイクロフトは視線だけを寄越して、ジョンに言葉の続きを促す。その意思を正しく受け取って、彼は言葉を続けた。

「……来ますかね」

 ジョンの問いかけに、マイクロフトは少し考える素振りを見せた。そしてゆるりと首を横に振る。

「――確証は無い、と言わざるを得ない。呼び出すために必要な便りは“彼ら”を通して出した。彼もそれに応じた。だが、最終的には彼の――気分次第、といったところか」
「……そうですか」
「来たとしても、奴が僕たちの敵である可能性は十分にあるぞ、ジョン。なにせ、奴は――」
「いい、シャーロック。……分かってる」

 ジョンの左手がそっと、自身の胸元に当てられた。――いつでも、銃が取り出せるように。
 銀の弾丸を、撃ち込むことができるように。


***


 3人が廃墟を訪れる、その7日前。
 ディオゲネス・クラブの一室、マイクロフトの執務室でシャーロックが語った推理に、ジョンはなんと言っていいか分からずにいた。口を開けたり閉じたりしながら、乾いた喉を潤すように何度も唾を飲み込んで、ようやく彼の思いは言葉となった。

「吸血鬼――グレッグが? 僕たちの知る、あのグレッグが?」
「ああ、そうだ。――マイクロフトも、同じ答えに辿り着いていたはずだ」

 ふんと鼻を鳴らして、シャーロックはマイクロフトに向き合い言葉を続ける。

「それどころか、知っていたんじゃないのか? 非科学的な存在――吸血鬼のような存在が、この世に実在することを」
「…………」
「そして、“レストレードが吸血鬼である”――その可能性を排除するために、僕に依頼をしたんだろう?」

 マイクロフトは、小さく顎を引いて頷いた。それを見たジョンが、信じられないといった風にマイクロフトとシャーロックとを交互に見て、緩やかに首を横に振った。

「マイクロフトまで……そんな、本当に……本当に、そんな存在が?」
「……これは、国家機密だが――ああ、もう今更だな」

 ふう、とマイクロフトにしては大きな息を吐く。

「『英国心霊現象研究協会』を知っているか、ジョン」
「英国心霊……え、なんて?」
「『英国心霊現象研究協会』。通称SPR。科学の力をもってして、非科学的な世界を証明せんとする組織のことだ」

 ジョンはしばらく考える素振りを見せて、すぐに首を横に振った。

「……いや、知らない。心霊現象、なんて名前についてるからには、オカルト的な組織のようだけど――やばい組織なんですか?」

 ジョンの問いかけに、マイクロフトに代わってシャーロックが答える。

「いいや。今も実在する、由緒正しい組織だ。過去には著名な作家や学者が名を連ねていたこともある。秘匿された組織というわけでもないし、ネットで検索すればすぐに出てくる程度には有名だ」
「へえ……ってことは、吸血鬼についても――」
「当然、彼らの範囲内の話ということになるな。……そしてマイクロフトがこの組織の話をしたということは、名実ともにこの組織は、英国政府の管理下にあるんだろう」

 そこまで言って、シャーロックはマイクロフトに向けてくい、と顎をしゃくった。――“あとはその組織を管理をしているあんたが話せ”、ということらしい。
 シャーロックの後を引き継ぐ形で、マイクロフトが口を開く。

「たしかに、あの組織は私の管理下にある。定期的にもたらされる彼らから英国政府への連絡も、私が引き受けている。……レストレード警部に関する話は、前任者から引き継いだ情報にも、定期連絡にもなかったがね」
「じゃあ、グレッグが吸血鬼じゃない可能性も――」
「残念ながら、その可能性はない」

 きっぱりとマイクロフトは言い切った。

「君たちがここに来るまでの時間で、SPRに問い合わせた。――レストレード警部の在籍は、確認済みだ」
「……“在籍”?」
「あるいは“管理”、もしくは“保護”と言い換えることもできる。――人在らざるものたちが、人間に危害を及ぼすことがないように。SPRはそうした存在を適宜捜索し、彼らが人間社会に溶け込めるよう保護している」
「……とりあえず、映画とかによくある、エクソシストみたいな――吸血鬼のような存在を退治する組織ではないんですね?」
「そういうことだ。……まあ、エクソシストに似た組織も存在するがね。少なくともSPRは違う」
「そっか。……よかった」
「よかった?」

 安堵のため息とともにジョンが呟いた言葉に、シャーロックが怪訝な顔をする。

「だってグレッグが、知らないところで苦しんでたかもしれないじゃないか。……少なくとも、その、保護してる彼らに悪いことはしない、してないってことでいいんですよね?」
「保護対象は、『人間に危害を加えない』という条件を満たすものだけだがね」
「じゃあグレッグは大丈夫だ! なんてったってスコットランドヤードの警部なんだから――」
「果たして、そうだろうか」
「え?」
「――ジョン」

 静かな声で、シャーロックが言う。

「“ロンドン吸血鬼事件”の容疑者、その最有力候補は、レストレードだ」
「……あ」
「『人間に危害を加えない』。――その条件を、奴は反故にした可能性がある」
「…………」
「――最初から人間に危害を加えるつもりだった存在よりも、一時でも人間社会に溶け込んだ存在の方が、よほど恐ろしいのだよ、ジョン」

 ジョンとシャーロックがこの部屋に入ってきてから一度も視線を逸らさなかったマイクロフトが、初めてその目を伏せた。

「彼らは人間の弱さを、人間社会の中で生きることによって、身をもって把握している。そして人間としての生活圏を、すでに確立している。こちらも迂闊に手は出せない」
「そもそも管理だの保護だのと言ってるが、実際は相手側の善意を前提とした“契約”だろう?」

 シャーロックの鋭い視線が、マイクロフトを射抜く。

「人在らざるものが、反抗してきたことの方が多いんじゃないのか」
「……そうだ。だがレストレード警部はSPRの、数少ない“協力者”だった」
「……協力者、ってことは、少なくとも“ロンドン吸血鬼事件”が起きるまでのグレッグは、僕たち人間の味方だったってことで合ってる?」
「SPRと私の見解はそうだ」
「……僕もそう思うし、そう信じたい。――でも、ちょっと待ってくれ、2人とも」

 ジョンが2人を見る。

「シャーロックやマイクロフトが言うように、グレッグが吸血鬼だったとしよう。……でもそれが、“ロンドン吸血鬼事件”の犯人であることには結びつかないんじゃないか? 他の吸血鬼が犯人で、グレッグはSPRの協力者としてそれを止めるために――」
「だったらなおさら、レストレードはスコットランドヤードの警部としてそこに居るべきだったんじゃないのか」
「!」
「SPRにも、レストレード警部からの連絡はなかったそうだ。……SPRの協力者として動くとき、彼からの連絡が途絶えたことは、これまで一度もなかったらしい」

 間髪入れぬ2人の反論に、ジョンは言葉を詰まらせる。

「そもそもの話、僕はレストレードが犯人である可能性が高いと言っただけで、犯人であると断定したわけじゃない。状況証拠が、奴が犯人であると示しつつあっただけだ」
「……グレッグが犯人である確率は、何%くらい?」
「60%」
「……思ってたよりも、低いね」
「僕の手元には事実上、状況証拠しかないからだ。マイクロフトに聞けばさらに確率は上がるだろう」
「聞かない方がいい、と答えさせてもらうがね」
「……じゃあ敢えて聞きます、マイクロフト。貴方から見れば、何%?」
「――94%」
「…………分かった」

 重く、低い声でジョンは答えた。目を閉じて、何度か深呼吸をする。
 次にジョンが目を開けたとき、もう彼の目に迷いはなかった。

「マイクロフト。グレッグと連絡をとる方法はないんですか?」
「SPRを通せば、あるいは向こうから返事が来るかもしれない」
「SPRはレストレードの居場所を知ってるのか?」
「いや、知らないだろう。……だが、レストレード警部の居場所を知っているであろう“人在らざるもの”の居場所は知っているはずだ」
「……つまり、今の僕たちにできることは、SPRにグレッグ宛ての手紙なりなんなりを託して――」
「うむ」
「SPRから、“グレッグの居場所を知っているであろう存在”に手紙を渡してもらう。そして“その存在”に、グレッグへ手紙を届けてもらう――ってこと?」
「そういうことになる。――ああ、シャーロック」

 マイクロフトは牽制をするようにシャーロックを一瞥する。

「SPRに直接乗り込もうと考えているのなら、やめなさい」
「何故」

 図星だったのか、間髪入れずにシャーロックが抗議の声を上げる。それに対して、涼やかなマイクロフトの声が答えた。

「先ほど言ったはずだ、レストレード警部はSPRの“数少ない”協力者だと。――“数が少ない”だけで、警部以外にいないというわけではない。契約のもと、SPRの警護を担うものもいる。先ほども言ったように、“人在らざるもの”を忌避する組織も存在するからだ」
「…………」
「ただの不法侵入とは訳が違う。――そうだな、SPRと英国政府は、不可侵条約を結んでいると思え。それもとびきり危険で、一度でもその約定を違えれば、世界が滅びかねないほどの。――そんな条約を反故にして、突然侵入してきた人間を、さて、“協力者”たちはどうするだろうね? ……侵入者に対して『何をしていい』と、SPRは“協力者”たちに言っていると思う?」

 マイクロフトが、にこりと笑う。笑っていない目で、瞳の色に相応しい冷たい色をのせて、笑う。
 しばらくの間、兄弟は互いを探るように見つめ合っていた。ジョンからはなにも読み取れないが、おそらくはきわめて高度な心理戦が、この兄弟の間で行われているのだろうことは、容易に想像できた。
 兄弟が見つめあっていたのは、わずか1分程度。しかし、一目見ただけであらゆる事象を観察し終えるこの兄弟にとっては、きわめて長い時間。――最初に動いたのは、マイクロフトだった。
 今まで彼の瞳を支配していた冷たい色が、ふっと消える。そしてさきほどよりも少し小さな声で、わずかにその目を伏せながら、彼は口を開いた。

「――私の持つ権力は、“彼ら”には通用しない。……何かあったときに、お前を助けてやることも、手伝ってやることもできないのだ」
「…………」
「シャーロック。もしもお前が、この一連の事件を解き明かしたいと望むなら――大人しくしていなさい。私からの連絡があるまで、このロンドンで。……同じような事件があればお前を現場に通すよう、スコットランドヤードにも伝えておこう」

 マイクロフトの言葉はいつものような命令形でありながらも、彼が浮かべている表情には心配の色が強かった。――もしSPRにシャーロックが乗り込んだ結果、何かが起こったとき。マイクロフトは本当に、シャーロックを庇うことができないのだろう。
 マイクロフトがどれだけシャーロックを家族として大事にしているかを、ジョンは分かっているつもりだ。そのために監視カメラでフラット内を盗撮したり、金を出すから情報を定期的に渡せと言ってきたりするあたりはやりすぎだと思うが、それくらいしないと危うい時期がシャーロックにはあったのだと、ジョンはレストレードから聞いたことがあった。
 だからジョンは、マイクロフトに助け船を出すことにした。――シャーロックとの冒険は楽しいけれど、確実に死ぬと分かっている場所に行くことは、冒険ではない。
 敵がサイコパスでもシリアルキラーでもなく、正真正銘、“人在らざるもの”であるのなら、なおさらだ。
 それを冒険と呼べるのは――物語の中だけなのだ。

「シャーロック。……少し待とう。僕たちの方でも、準備できることはあるだろう?」

 そう言って、ジョンは隣に立っているシャーロックを見上げた。――シャーロックだって、マイクロフトの言葉に嘘がないことには、きっと気付いているはずだ。
 もしかしたらジョンが気付いていないだけで、マイクロフトの言葉には嘘が含まれていたのかもしれない。だが、マイクロフトがシャーロックを心配している、その心までは嘘ではないはずなのだ。少なくとも、ジョンはそう信じている。
 シャーロックは、そっとその視線をマイクロフトから外し、隣に立つジョンへと向けた。数瞬の後、彼は思いきり口をへの字に曲げた。まるで拗ねている子供のように。
 シャーロックはその顔のまま、マイクロフトを見る。

「……マイクロフト」
「分かっている。レストレード警部からの連絡があれば、必ずお前たちにも伝えよう」
「その日のうちに教えろ」
「分かっている」
「レストレードからの連絡じゃなくても教えろ。SPRからの連絡だったので教えなかった――そんな言い訳を、僕たちは許さない」
「もちろんだ。――この事件の、穏やかなる解決を望んでいるのは、なにもお前たちだけではない」
「穏やかなる解決?」

 シャーロックはわずかに首を傾げ、マイクロフトを凝視する。

「――ああ、なるほど。レストレードがスコットランドヤードに戻ってくることか」
「……ってことは、穏やかじゃない解決法もあるってことだよな、シャーロック」
「そっちの方が確率としては高いと、マイクロフトは踏んでる」
「でもマイクロフトはグレッグが戻ってくることを望んでるし……僕たちに連絡するっていう約束は、ちゃんと守ってもらえそうだな」

 とりあえずは一安心だ――そう呟いたジョンに、マイクロフトは片眉を器用にはねあげる。

「私の話をした覚えはないよ、ジョン。あくまでも英国政府が――」
「じゃあマイクロフトは、グレッグに戻ってきてほしいとは思わないんですか?」
「―――」
「グレッグに、戻ってきてほしいって。……貴方が本当にそう思っていないのなら、どうして貴方はシャーロックに、“ロンドン吸血鬼事件”の調査を依頼したんですか? ――僕たちに何も知らせないまま事件を終わらせることなんて、貴方にとって簡単なことだったでしょう」
「…………君たちへの連絡は、必ず行うと約束しよう。我らが陛下の名にかけて、必ず」

 マイクロフトの手の内にある傘が、こつん、と床を叩く。ひどく静かな部屋に、ひどく弱々しい音が響く。
 まっすぐ2人に向けられた視線と、わざとらしく、分かりやすく、逸らされた話題。――それが、“歩く英国政府”の答えだった。


第8話【終】