第7話

 ――不可解な事件が、ロンドンで相次いでいる。
 マイクロフトは手に持っていた書類を、丁寧に角を揃えてデスクの上へと戻した。
 ディオゲネス・クラブ。その一角にマイクロフトが誂えさせた、彼専用の執務室。
 静まり返るその部屋のなかで、マイクロフトは部下に集めさせた資料を整理していた。本来なら自身ではなくシャーロックが、あるいはスコットランドヤードが受け持つであろう事案――“ロンドン吸血鬼事件”。そして、その直前に起きた、グレッグ・レストレード警部の失踪。この2つの事件に、関連性がないとは考えられない。
 なによりも、彼の失踪の直前に起きていたアメリアの事件について、既にマイクロフトは把握している。その日のレストレードの様子がおかしかったとの情報も手に入っている今、“ロンドン吸血鬼事件”の犯人として最も疑わしいのは、行方知れずのあの男だった。
 どのようなトリックを使ったのかは分からない――否、そもそもトリックですらないのかもしれないと、既にマイクロフトは気付きつつあった。……“その存在”の実在を、マイクロフトは知っている。
 会ったことこそないものの、“それ”がこの世に在ることを、マイクロフトはこの地位を継承したときから知っていた。まったくもって、シャーロックはこの世の真理を言い当てている。――“不可能を消去して残ることが何であれ真実だ”。
 もしも、これが真実ならば。――マイクロフトは、英国政府は、どうすべきなのか。
 マイクロフトの脳裏を過ぎるいくつもの“とるべき手段”は、決して穏やかなものとはいえない。
 だからマイクロフトは、シャーロックに依頼をしたのだ。――レストレードが、“それ”でないことを祈って。行方知れずになったのは、ただのトリックであることを願って。

「Sir」

 アンシアの呼び声に、マイクロフトの意識が浮上する。視線だけで言葉の先を促せば、それを心得ている優秀な秘書は、手元のモバイルから目を離すことなく言葉を続けた。

「面会の申し出が入っております」
「誰からだ?」
「Mr.シャーロック・ホームズです」
「……弟が、私に面会の約束を取り付けようとしているというのかね。既にこの建物に侵入しているわけではなく?」
「こちらに向かわれている途中のようです。依頼主であるSirに現況報告をしたい、とのことですが」
「……ふむ」

 マイクロフトは頬杖をつき、人差し指で自身のこめかみを2回ほど叩いた。――弟の思考も、相当煮詰まっているらしい。
 普段は勝手にここまで侵入してくるシャーロックが、今回はその手段を使わない。それはマイクロフトに小言を言われる、その時間すら彼にとっては惜しいということだ。――そうか。
 お前でも、私でも、彼が姿を消したトリックは、分からなかったか。
 そうであるならば、導き出される答えは、もう――

「今日の予定は?」
「すべて後日に振り替えることができます」
「では、そのように」
「かしこまりました」

 アンシアがモバイルを操作する。シャーロックへの返答と、今日の予定の振り替えをしているのだろう。
 正規の手順に従ってシャーロックがこの部屋に来るのなら、まだ少し時間がある。その間に、マイクロフトは目の前にある書類をあらかた片付けてしまうことにした。――報告が始まれば、きっとそちらに、かかりきりになってしまうだろうから。


***


「穴の種類に違いがある」
「ふむ、それで?」

 正々堂々、正面玄関からディオゲネス・クラブに入場し、これまた正しい手段をもってしてマイクロフトの執務室へと訪れたシャーロックからの報告に、マイクロフトはさして驚いた様子もなく、笑顔で話の続きを促した。――マイクロフトが既にその情報まで辿り着いていたことは、シャーロックとて分かっている。
 分かってはいるが、まるで幼い子供に『うんうんそうだね、それで次はどんなお話なのかな?』とでも言うかのような態度をとられると、兄への反抗心が湧き上がってくるのは必然といえた。口をへの字にして、シャーロックは口を噤む。
 そもそもここに来るまでに正規の手段を使うこと自体、兄への反抗心を抑えつけて行なったものなのだ。さらに神経を逆撫でするようなことをされて、やはりこんな変人クラブになど来ずにテキストでやりとりをすればよかったと、シャーロックが後悔してももう遅い。既にここまで来てしまったし、今シャーロックがそう考えているだろうことも、マイクロフトには読まれているだろうからだ。
 それでもシャーロックは、帰る素振りを見せなかった。シャーロック自身、考えが煮詰まっていたのもあるし、マイクロフトの様子は、ただシャーロックを揶揄うためだけのものではないと気付いていたからだ。
 苛立つ気持ちを抑えるために、シャーロックは横目にジョンの様子を窺う。――どうやら、ジョンにはマイクロフトの真意が読み取れなかったようだった。
 なによりも、彼自身がレストレードの失踪に心を痛めている。ここで兄弟喧嘩が勃発すれば、さらに解決は遠のくと思ったのだろう。彼はわざとらしい咳払いをひとつして、マイクロフトを睨めつける。そして、マイクロフトを諭すように、言葉を一つ一つ区切りながら、ゆっくりと言った。

「マイクロフト。あのシャーロックが、わざわざ、貴方の執務室まで来たんだ。事前に、アポイントまでとって。……そろそろ、彼を揶揄うのはやめてほしいんだけど?」
「それは失礼。なにぶん、このような事態は滅多とないことでね。もう少し、兄弟として話したかったが――」

 マイクロフトが、手に持っていた傘で床をひとつ、叩いた。すっと消える表情は政府高官のそれであり、ジョンは意図せず背筋を伸ばした。――先ほどまでそこにあった、いつもの兄弟喧嘩の雰囲気が一変する。

「ようやくまともに話し合う気になったのか」
「ジョンが緊張しているようだったのでね、場を和ませようかと」
「だそうだぞ、ジョン」
「……えっ、そうなのか?」

 まじまじと、ジョンがマイクロフトを見る。――マイクロフトのことを、決して優しくないとは言わないけれども、それでも“正しく一般的な”気遣いを向けられると、どうにも落ち着かない。
 とはいえ、だ。シャーロック曰く、マイクロフトの気遣いは事実のようだから、ジョンはきちんと礼を言うことにした。

「……ええと、ありがとう」
「どういたしまして。――では、報告の続きを、シャーロック」

 にこりと笑ってジョンの礼に答えたマイクロフトは、すぐにシャーロックに視線を戻した。その様子に、シャーロックはふんと鼻を鳴らしながらも口を開いた。

「アメリアと、その他の死体とで異なる」
「具体的には?」
「アメリアの首元の穴は、彼女の死後に開けられたものだ。……しかし、レストレードが行方知れずとなってからの5つの事件、それらは被害者たちが生きているうちに開けられた穴だ」
「片や殺された後に開けられ、片や生きたまま開けられた……そういうこと?」
「そうだ、ジョン。そこに理由がある――」

 そこまで言って、シャーロックは首を傾げた。

「ジョン。……僕は君に、これを説明してなかったか?」
「聞いてないけど」
「説明したはずだが」
「シャーロック」

 やれやれと頭を抱えながら、マイクロフトが言う。

「フラット内の防犯カメラの映像が正しければ、お前が説明しているときにジョンは部屋にいなかったよ」
「なんだって? どこに行ってたんだ!」
「シャーロック、それ、いつの話? まさか昨日の日中だなんて言わないよな」
「そうだが?」
「仕事に行ってるに決まってるだろ、僕は医者だぞ」
「…………」
「それとマイクロフト。聞き捨てならないから改めてきちんと言っておくけど、フラット内の防犯カメラは早く外してくれ」
「シャーロックがイギリスにとって安全な存在になった暁には、検討しよう」
「ああ、じゃあ無理だね。せめて僕の部屋にはカメラはつけないでくれよ」
「どういうことだ、ジョン!」
「そのままの意味。――話を戻そう、シャーロック。続けてくれ、君の推理を」

 ジョンの言い分に納得のいかなかったシャーロックはさらに言葉を言い募ろうとして、しかしジョンの言葉に、その瞳に、口を閉じた。

「きっと君は、答えを見つけたんだろう? じゃなきゃ、マイクロフトにわざわざ会いにきてまで話をしたりなんかしない。――今すべきことは、こんな話じゃないだろう、シャーロック」

 ジョンの瞳は揺れていた。その瞳は、ジョンの胸の内を雄弁に語る。――グレッグはどこに行ったんだ。本当に、あの連続殺人事件の犯人はグレッグなのか?
 そうだ、こんな話をするためにここに来たわけではないのだ――シャーロックは咳払いを二回ほどしてから、口を開いた。

「失踪前、レストレードはアメリアの事件の真相について既に知っていると言っていた。そして、僕達が“科学的な”天才だからこそ分からないのだと。時には凡人の弱い頭の方が、真相に近づけるのだとも。――“科学的”。奴が強調した単語。そこに答えがあるとするならば……ジョン」
「なんだ?」
「最近騒がれている、5つの連続殺人事件。その俗称は?」
「“ロンドン吸血鬼事件”だろう? 首元に2つの穴があって、全身の血が抜き取られていたから――」
「そこだ、ジョン。――それが答えなんだ」
「―――」

 絶句するジョンに構わず、シャーロックは言葉を続ける。

「レストレードは“科学的”という言葉を強調した。であれば、彼が言いたいのはその逆だ。――“非科学的”。そう呼ばれるものについて知識を広げるならば、自ずと答えは出てくる。……最初から、答えは目の前にあったんだ。非科学的だと、論じるにも値しないとゴミ箱に投げ込んだ情報のなかに、答えはあった。世間は、最初からこの答えに、意図せず辿り着いていたんだ」
「……シャーロック、それって、まさか――」

 今からシャーロックが言うであろう言葉に気付いたらしいジョンが、信じられないといった面持ちでシャーロックを見上げた。その瞳を一身に受けながら、それでもシャーロックは苦々しく告げる。

「僕だって信じがたいと思っている。……だが、何度も、何度でも言おう、ジョン。――不可能を消去して残ることが何であれ真実だ」

 奴は。
 ――レストレードは。

「吸血鬼。――正真正銘、レストレードが吸血鬼だったとするならば、全ての説明がつくんだ、ジョン」


第7話【終】