第1話

「情報の対価は貴方だ」

 向かいのソファーにゆったりと座りながら伝えられたマグヌセンの要求は、マイクロフトの予想と違わぬものだった。マイクロフトは動揺のひとつも見せずに、目の前の男を見据える。
 この取引を成立させるために必要な対価、あるいは犠牲。それが自分自身であることはこれまでの取引内容から容易に想像できていたし、その覚悟をもってマイクロフトはこの場に臨んだのだ。
 故に驚くことなど何もない。ただ一言、答えればいいのだ。イエスと。

「いいだろう。支払いはいつ頃に?」
「貴方の都合に合わせましょう。――これから苦労をおかけしますからね」

 そう言って浮かべた笑顔はいっそ紳士的といってもいいほどなのに、それに釣り合わない死んだような瞳が印象的だった。マイクロフトがマグヌセンと初めて出会った、その時からずっとそうだった。

「貴方が賢明な方で本当によかった。過去には、たった一度の支払いで救われるはずだった人生をみすみす投げ捨ててしまった方がいたものですから」

 そう語るマグヌセンの表情は変わらない。ただ愉しげに、マイクロフトの表情を観察している。
 彼の言う人物を、マイクロフトはよく知っていた。彼の古くからの友人のひとりだった。マイクロフトにプレッシャーを与えるための生贄に、不幸にも選ばれてしまった人物だった。
 友人は涙ながらに一言、『すまない』とだけ言葉を残し、その日の夜、帰らぬ人となった。CAMグローバルニュース社が、それをいち早く報道した。――どうか自身の妻と同じ墓の中で、穏やかに眠っていてほしいものだと、マイクロフトは思う。
 殊更ゆっくりとソファーから立ち上がったマグヌセンに握手を求められる。同じように立ち上がり、抗うことなく重ね合わせて触れた相手の手は、じっとりと濡れていた。手を離す直前、そっとマイクロフトの手のひらを、マグヌセンの細い指が撫でていく。

「では、また後日」
「日時が決まり次第、メールで伝えよう」
「お電話でも構いませんよ」
「ニュース社のCEOは忙しいだろう。時間があるときにゆっくり確認できるよう、メールを送る」

 必要以上の接触は避けたい。言外に込めたマイクロフトの意図はマグヌセンにもはっきりと伝わったようで、彼はやれやれと言いたげに小さく肩を竦めていた。とても、とても愉しげに笑いながら、彼は部屋の出口へと向かって歩いていく。そして扉に手をかけたところで、彼は動きをとめた。

「ああ、そうです、言い忘れていたことが」

 マグヌセンが振り返る。

「日程はいつでもいいのですが――時間は、そうですね、移動する時間も、貴方が交渉する時間も必要ですから、朝の5時から夜にかけて……まあ、要は丸一日、スケジュールを空けておいていただけますか?」
「――……ご要望とあらば」
「では、そのように。さようなら、ミスター・ホームズ」

 にこやかに別れの挨拶をして、マグヌセンが部屋を出ていく。その扉が閉まったとき、形ばかりの笑顔を浮かべてそれを見送っていたマイクロフトから表情が抜け落ちた。――“移動する時間”とはなんだ。“交渉する時間”とは?
 相手のテリトリーで事をなすつもりはない。だが、移動したいと彼が言うのならば、マイクロフトはそれを断ることのできる立場ではなかった。せめてどこに移動するつもりなのかを問えばよかったのだろうが、あの様子からして、マグヌセンがそれを答えることはなかっただろう。
 そして要求された時間の長さもおかしい。丸一日空けておけ、とマグヌセンは言った。マイクロフトの予想していたマグヌセンへの対価は、夜に、長くても数時間程度で終わるはずものだ。――いったい何をしようとしている?
 予想される行動はいくつかある。そのどれもがマイクロフトにとっては最悪の事態であり、せめてどの行動をとるつもりなのか、事前に把握しておく必要があった。

「アンシア」
「はい」
「彼の監視グレードをあげてくれ」
「かしこまりました」

 既に契約は成立した。マイクロフトが“自身”を提供するかわりに、マグヌセンは英国政府が求める情報を提供する。これまでにも何度かあった“ビジネス”だ。
 “自身”を求められたのは今回が初めてだったが、求められてもおかしくないほどには、マグヌセンの保有する情報は機密性が高く、また重要度の高いものだった。必要な取引だった。
 マイクロフトは懐から懐中時計を取りだし、今の時間を確認する。――次の予定の時間が迫っているようだ。
 この国の問題は、なにもマグヌセンに関することだけではない。マイクロフトが考えなければならないことは山ほどある。今この時にも増えている。
 アンシアが静かに部屋の扉を開けた。その扉を潜る頃にはもう、マイクロフトの思考は切り替わっていた。


第1話【終】