第2話
そうして迎えた、マグヌセンとの約束の日。
マイクロフトはどこか疲れた様子で、目の前に広がる光景を眺めていた。天気は良好、優雅な昼下がり、門扉を潜ったその先には、美しく整えられた庭園。
本来なら疲れを癒してくれるはずの景色だが、そこに映り込むあの男の姿が、その邪魔をする。
マイクロフトの疲弊をよそに、マグヌセンはモバイルを手に持ち、庭園に入ってすぐのところでパシャパシャと写真を撮っていた。被写体は、庭園に入ってきた者たちを優雅にもてなす、美しき白の花々である。――待て、写真?
「ミスター・マグヌセン」
「なんでしょう?」
マイクロフトの問いかけに、振り向くことなくマグヌセンが問い返す。
「ここでの写真撮影は固く禁じられている」
「おや、どうして?」
目を丸くして、マグヌセンが振り返る。
「こんなに美しいのに」
「“だからこそ”という趣だ。――貴方には理解できないかもしれないが」
この美しい風景を、四角い写真や丸い額縁、0と1の世界などに収めるなど無粋きわまりない――マイクロフトは、そう言いたいのである。
その美しい光景を瞳に。かぐわしい香りを鼻に。鳥たちの囁きを耳に。――あらゆる感覚を用いて、それらを記憶に焼き付ける。そして時々それを思い返し、忘れかけた頃にふらりと訪れ、季節により移りゆくこの庭の美しさを再び味わう。
それがこの庭園の昔からの楽しみ方なのだ。電子機器の持ち込みさえ禁止されかねなかったほどに厳格なこのしきたりは、マイクロフトが決めたものではない。しかしわざわざ変えるほどのものでもない。よって現代においてもこのしきたりは依然として残っており、マグヌセンはそれを意図せず侵犯したことになる。――ここにマグヌセンを呼ぶことになるなど、マイクロフトをして予想できなかった事態であった。
そもそもマグヌセンが、“こうした要求”をしてくること自体が、想定外だった。
*
「この国に、秘められた庭園があると耳にしましてね。私はそれが見たいのですよ」
朝の5時。
待ち合わせたホテルの一室でマグヌセンが告げた庭園の名を聞いたとき、マイクロフトは天を仰ぎたい心持ちになった。軽く絶望さえした。――これから、この庭園の管理に関係するあらゆる人々を叩き起こし、早急に許可をもぎとらねばならない。
伝統という言葉を、古き良き文化と言い換えるか、それとも悪しき風習と言い換えるかはその時々によるものだが、今回は完全に後者であった。
「私はここで紅茶でも飲んでいますから、どうぞ焦らずに。必要であれば私も“口添え”しますよ」
「結構だ、この部屋で待っていてくれ」
「分かりました、貴方がそう言うのなら」
――“移動する時間”、“交渉する時間”とはそういうことか。丸一日空けろというのはそういうことか――
部屋を出たマイクロフトは歯噛みする。どおりで今日に至るまでのマグヌセンの行動になんの変化もなかったわけだ。動くべきは、準備すべきは英国政府であり、彼ではなかったのだから。
こういうときは、私もマグヌセンもしていることは変わらないな――そう、“歩く英国政府”は思う。政府側の人間であるだけ、さらにタチが悪いとさえいえるだろう。
時間のなかったマイクロフトが関係者たちと行なった交渉は、交渉という皮を被った“恐喝”、まさにマグヌセンが常日頃に行なっているそれと呼んで差し支えないものだったからだ。
果たしてマイクロフトは午前中のうちに各所との交渉を終え、元のホテルに戻ってきた。ときおり監視カメラでマグヌセンの様子を確認していたが、彼は特に怪しいこともせず、静かに部屋の中で紅茶を飲み、ルームサービスで頼んだ軽食を食べていた。ホテルマンと和やかに会話さえしていた。監視カメラ越しでも分かる、彼の楽しみ具合は、旅行前の子供のそれに似ていた。
こちらはあちらこちらを歩き回り、ようやくここに戻ってきたというのに――マイクロフトは監視カメラの映像を映すラップトップを憎々しい気持ちで閉じて車を降りた。そして朝の部屋へと戻り、マグヌセンと共にホテルを出た。
清々しい快晴であった。
空が、高い。
*
マイクロフトは、わざとらしく大きな咳払いをした。
「ミスター・マグヌセン」
そして、既にマイクロフトから視線を外してまじまじと花々を観察しているマグヌセンに声をかける。
「貴方の要求は? ――まさかこの庭園を見せてほしい、というだけではないだろう」
マグヌセンが求めているものが分からない。この庭園に来たいと言われ、断ることのできない立場であるマイクロフトはその通りにした。誰からこの庭園の話を聞いたのかは定かではないが、そもそもこの場所を知っている人間自体、限られている。マグヌセンとの接触記録を探れば自ずと知れる話だ、ならば今話すべきことではないだろう。
マグヌセンの、目的。――マイクロフトの友人を死に追いやるほどの恐喝をしてまで、彼が欲しかったものは、いったいなんだ。
マイクロフトはマグヌセンを見据える。対するマグヌセンは、マイクロフトの問いかけに不思議そうに首を傾げた。
「見せてほしかっただけですが?」
「……失礼、もう一度お聞きしても?」
聞き間違えたかとマイクロフトが丁寧に聞き返せば、マグヌセンは先ほどと同じ調子でそれに答える。
「ですから、その通りです。この庭園を見せてほしかった。それだけですよ、今回の要求は」
その答えを聞いたとき、マイクロフトの優秀な頭脳は速やかにマグヌセンの観察を行なった。そんなはずはない、きっとなにか裏がある、それを見つけなければ――
しかしマイクロフトの優秀な頭脳は、彼の意に反する答えを叩き出した。
「……本当に、この庭園に来たかっただけなのか」
「ええ、そうです。何か問題が?」
「この庭園に、貴方から提供される情報に見合うだけの価値があるとは思えないが」
思わずついて出たマイクロフトのその言葉に、マグヌセンがぴくりと反応した。そして彼の眉間に、わずかに皺が寄る。――どうやら彼は、マイクロフトの言葉を不快に思ったようだ。
「それを決めるのは貴方ではなく私です。少なくとも私は、この景色を素晴らしいものだと思っていますよ。今このときにもね」
それはマグヌセンらしからぬ、刺々しい言葉だった。彼は恐喝などという行為を行うくせに、否、行うからこそわざとらしく丁寧に話す。自身を排除する口実を、相手を与えないために。
しかし今の彼は、自分が不快な気持ちになったことを隠すつもりはないらしい。マグヌセンとの契約関係に亀裂が入ることを避けたいマイクロフトは、よくある謝罪文句を口にした。
「それは失礼した。貴方を不快にさせるつもりはなかったのだが――」
「そうでしょうね」
ふん、とマグヌセンが鼻を鳴らす。
「貴方の思っていた対価とは異なるものを私が要求したから困惑したのでしょう? ――そういうことにしておきませんか、ミスター・ホームズ。こんなところで口論なんて、せっかくの美しい景色が台無しです」
言うや否や、マグヌセンはマイクロフトに背を向けた。まるでマイクロフトの言葉など不要だとでも言うように。実際、不要だったのだろう。彼の背中は如実に、マイクロフトへの拒絶を表している。
しかし、マイクロフトへの拒絶の感情でさえも、彼は背負う気はないらしかった。ふう、と息を一つ吐いて、マグヌセンは再びマイクロフトと向かい合った。
「まあ、誤解させるような言い方をしたのは私ですからね。それについては、私も謝らなければならないでしょう」
その声色は、既に明るいものへと戻っている。そして、その顔には意地の悪い笑顔が浮かんでいた。
「朝から大変な苦労をおかけしました。方々に動き回られて、貴方もお疲れでしょう? ともに、この美しい花々に心を癒されようではありませんか」
仰々しく手を差し出すマグヌセンの言葉を、しかしマイクロフトはぴしゃりと跳ねのける。
「結構だ。私は少し離れたところから、この庭園の花々を眺めることが好きなのでね」
「そう仰らずに。――ここを私に紹介するために、様々な方と交渉されたのでは? 英国は伝統を重んじますからね、外国人である私にこの場所を紹介するとあっては、なかなか骨の折れる作業であったと思いますが」
「分かっていたのなら、事前に相談していただきたかった」
「こういう交渉ごとは、焦らせる方が効果があるでしょう。現に、貴方が朝早くに交渉をかけてきたことで、彼らは焦ったはずですよ。――英国に、何かがあったのかとね」
しかしながら実際は、ただ『英国にある、あの秘められた庭園をマグヌセンに見せる許可をくれ』という、なんとも拍子抜けな話だった。その落差に、彼らの口は軽くなったというわけだ。――なんだ、そんなことか。好きにせよ、と。
「安心してください」
マグヌセンの言う通りに事が進んだ午前の数時間を思い返し、眉根を寄せるマイクロフトにマグヌセンが笑う。
「この庭園のしきたりに則り、正しく振る舞うつもりですから。ここが英国政府の、限られた方々にしか知らされていない理由は私も知りません。実のところ、興味もありません。――謎は謎のままに、秘された理由も、そこに秘められたであろう想いも、そのままに。……私は、そうした“秘密”も含めて、この場所を好ましいと思っています。心の底からね」
そう言って、マグヌセンはマイクロフトを置いて庭園の中へと向かって歩き出した。勝手知ったると言わんばかりに、彼は庭園の奥へ、奥へと進んでいく。
マグヌセンの言葉をそのまま信じるわけにもいかなかったマイクロフトは、この庭園の管理者のひとりとして、その責任を果たすためにその後を追った。
第2話【終】