プロローグ

「ここが、これから君が暮らす家になる」

 黒塗りの高級車から降りた男――マイクロフト・ホームズは、そのすらりとした指を目の前の建物へと向けた。
 豪邸。
 その一言に尽きるそれは、しかし落ち着いた雰囲気と静寂をもって彼らを迎え入れた。遅れて車から降りてきたもうひとりの男は、建物を前にするなり固まっている。――え、え、なんかでかくない? この人そんなお金持ちなの、ささやかな官職に就いてるとか言ってなかったっけ? ささやかって何、私の知ってる英語とは違う意味だったりする?
 元来、頭の回転の早い男の周囲にはその回転の速さにふさわしい速度でもってテキストが飛び回っていた。彼はおそるおそる門へと近付き、そっと中を確かめている。

「申し訳ないが、ここから――具体的には建物の中から出ることは許されないと思ってほしい。庭への出入りもしばらくは禁止となる。必要なものがあれば私か、私がいなければ使用人に伝えてくれ。用意できるものなら用意しよう」
「え? ――ああ、それは別にいいよ。どうも私は君にとって、あまり良くない人間だったみたいだし」

 マイクロフトの説明は事実上の監禁を意味するものであったはずだが、門の側で豪邸を眺めている男はあっけらかんと頷いてみせた。マイクロフトが目の前の男に抱いている悪感情に、既にその男は気が付いていたらしい。
 二人の会話らしい会話は、数時間前に出会ったときに交わしたものと、同乗した車の中での数回しかなかったが、たしかにそれだけ言葉数が少なければ、仲が良いとは思わないだろう。
 それでも『我々は仲が良くない』ではなく『自分はあまり良くない人間だった』という言い方をしたことは、マイクロフトの頭の片隅にひっかかった。――彼自身、自分の性格が良くないことは理解できているのだろうか。“この状況下”においても、基礎的な部分はやはり失われていないのか。

「んー、でも……できることなら、本や新聞がほしいな。何もせずにここにいるのは、さすがに暇だろうから」

 マイクロフトは、建物に目を奪われている男に気付かれない程度に片眉を上げた。――新聞。
 そうか。お前は、こんな状態になってもそうしたもの達から離れられないのだな。
 まさしく天職だったのだろう、彼にとってあの仕事は。咳払いを一つして、マイクロフトは手に持っていた傘に力を込めた。

「新聞は難しい。テレビ、電話、携帯、ラジオ、その他の電子機器もすべて。――だが、本ならいくらでも。どんな本が読みたい?」
「英会話の本」

 間髪入れず答えた男は、くるりとマイクロフトの方へと向き直った。

「君と、もう少しきちんとお話がしたいんだ。……今の私ではまだ、うまく話すことができないから」

 そう言って、少し照れたように笑ってみせた男――チャールズ・アウグストゥス・マグヌセンは現在、記憶喪失である。


プロローグ【終】