第1話

 西欧諸国の重要人物を長きに渡り脅かしてきた恐喝王の死は、勇み足の新兵が指を滑らせたものとして処理された。それがマイクロフトの実弟、シャーロック・ホームズによりもたらされたものであることを知るのは、英国内でもほんの一握りである。
 そして、数多の思惑とたった一つの想定外によりもたらされたその死により、すべての確執は解消された――これが恐喝王の死の真相を知る者たちの認識だった。
 しかし現実は異なるのだと、マイクロフトは知っている。
 静寂に包まれた車内、その後部座席で、マイクロフトはラップトップに映し出されていた監視カメラの映像を消した。今日も、マイクロフトの屋敷に住むあの男に異常はない。マイクロフトが渡した英会話の本は、彼をそこに留めることに大きく役立っているらしい。使用人たちが時々、彼の英会話練習の犠牲になって自身の仕事に取り掛かることが遅れるといった事態はあるものの、想定していたよりもずっと平和な光景である。
 「意外とまともなのかしら」と、まだ雇われて数ヶ月の使用人がそう呟いているのを耳にしたこともあった。なるほど、今の彼は素晴らしく善良な一般市民である。ともすれば見た目通りの、紳士的な人間だ。
 しかしマイクロフトは知っている。本来の彼が、その印象とは程遠い、喰えない鮫であることを。
 車が音もなく止まり、扉が開かれる。膝に乗せていたラップトップを鞄に入れ、車を降りたマイクロフトは自宅の扉の前でしばらく立ち止まっていた。――いつまで経っても、私は彼の笑顔に慣れることはないのだろう。
 扉を開け、使用人に荷物とコートを手渡す。そして迷いなく歩みを進めた先にある扉をノックすれば、中から「はあい、どうぞ」と呑気な声が返ってきた。――声の遠さからして、彼は今、窓際の椅子に座っている。監視カメラで確認したときから動いていない。この明るい声は、今日一日を健やかに過ごした証。それはこれまですれ違ってきた使用人たちの様子から既に得ていた情報ではあるが、それに誤りはないようだ。
 マイクロフトは静かに扉を開けた。

「おかえり、マイクロフト。今日の仕事はどうだった?」

 これまで通り、そして予想通り、マイクロフトを出迎えたのは屈託のない笑顔だった。仄暗い海の中を静かに泳ぐ人喰い鮫が浮かべるにはあまりにも不釣り合いなそれに、しかしマイクロフトの表情は崩れない。

「特筆すべき点はない。今日も英国は平和だよ」
「それはよかった」

 そう言って、マグヌセンは手に持っていた本を閉じた。既に英会話に関する本は五冊目に突入している。そして、手に持っているそれも、既に読み終わっているようだった。

「そろそろ英会話の本にも飽きてきたのではないかね」

 部屋の扉を閉めて、後ろ手に鍵をかける。そしてマグヌセンの向かいに置かれている椅子ではなく、少し離れたソファーに腰かけた。――いざというとき、いつでもマグヌセンから離れ、身を守ることができるように。マイクロフトは必ず、マグヌセンよりも出口に近い場所に身を置くようにしていた。
 マイクロフトからの問いかけに、マグヌセンは困ったように笑い、静かに首を横に振る。途端、彼の周りを飛び交い出すテキスト。マイクロフトの観察によって得られた、マグヌセンの心情。――確かに、飽きてきてはいたけど。でも、あんまりわがままを言うのもなあ。……私は彼に、嫌われているみたいだしなあ……
 一瞬、マグヌセンの視線がマイクロフトが座ったソファーへと向いた。そして、その一瞬を見逃すマイクロフトではない。
 この屋敷でマイクロフトとマグヌセンが共に暮らし始めて、早数ヶ月が経過している。そして未だに、マイクロフトがマグヌセンの向かいの席ではなく離れたソファーにしか座らないことに、彼が不安を覚えていることは当然、マイクロフトも分かっていた。
 マグヌセンがそっと視線をマイクロフトへと戻し、口を開いた。

「大丈夫。階級によって使う単語が異なるから、それを一つ一つ調べているとまだまだ飽きがこないよ。次は、そうだな、君たちのような身分の人たちが使用する英会話の本が欲しいな」

 居候の身としてわがままは言うまいとする健気な姿は、以前では考えられない。わがままなんて可愛い言葉では言い表せないようなことを彼は平然とやってのけていたし、それになんら罪悪感を覚えることもなく、むしろ快感さえ覚えていたような男だった。
 だが、現に今、“彼”はここにいる。同じ名前の、同じ姿の、全くの別人が、ここにいる。過去に思いを馳せる必要は、ありはするけれどもそれは今ではない。

「今まで君の情報を制限してきてすまなかった」

 思ってもいない謝罪とともにマイクロフトは立ち上がった。そして、マグヌセンの前にある席へと移動する。

「え、あ……マイクロフト?」

 マグヌセンの戸惑いの声は聞こえなかったことにして、マイクロフトは今までずっと避けてきた、マグヌセンの向かいの席に座った。目を白黒させるマグヌセンに、マイクロフトは仕事で相手を安心させるときに使う、完璧に作り込まれた笑顔を向ける。

「君の安全を確保するためには必要なことだった。君に与える情報を制限したのは、記憶障害を起こしている君の脳に大きな刺激を与えたくなかったからだ。どんな情報が君の脳に影響を与え、その結果がどう転ぶかが分からなかったからね。少しずつ、与える情報を増やして、様子を見ていたのだよ」

 マイクロフトの説明に、マグヌセンは目を瞬かせる。そしてごくりと唾を飲み込んで、誰かに聞かれることを恐れでもしているかのようにそっと、口を開いた。

「……それは、もう終わった?」
「ああ、終わった」
「本当に?」
「本当に。――今まで、不自由をかけてすまなかったね」

 マイクロフトはマグヌセンに笑いかける。先ほどよりも、ずっと深い笑みを。――含みのある笑みを。
 実際、マグヌセンに与える情報を制限した理由のひとつのなかには、いま説明したものも含まれていた。嘘はついていない。本当のことを――他にも理由があるということを――伝えていないだけである。
 マグヌセンとの交渉の、常套手段であったそれは、彼に記憶さえあれば見抜かれる程度にはお粗末なものだ。今この瞬間にも、マイクロフトは観察している。――マグヌセンが、記憶を取り戻しているかどうか。マイクロフトを謀ってはいないか。見抜くようなら、その見抜き方はどんなものか。
 記憶のないマグヌセンも、以前ほどではないにせよ、勘は鋭く頭も冴える。マイクロフトが、窓際の席に座りたがらないことに気付ける程度には。その勘の鋭さ、あるいは記憶のない彼でも行なうことのできる程度の観察でもって見抜かれたのであればよし。――だが、そうでないのならば。
 既に記憶が戻っており、そこから見抜いてきたのなら。そしてそれに、マイクロフトが気付けたならば。彼は外で待機させているスナイパーに合図を出し、窓際の席に座るマグヌセンを撃ち殺すつもりでいた。

「――じゃあ」

 しかし、どうやらそれは杞憂で済みそうだった。

「――私はもう、他のことを知ってもいい?」

 マグヌセンは、マイクロフトの言葉の裏に気付けていない。そのブルーグレイの瞳に、夕焼け空の朱色が混ざる。薄らと、その瞳に水の膜が張っている。

「ここが何処なのかとか、君は誰なのかだとか、私は誰なのかだとか、そうした、本で得られる知識以外のことも、聞いていい?」
「答えられる範囲内で、という前置きはあるがね。……君の脳に刺激を与えない程度の内容であれば、答えよう。――この席で」

 ――君はこの部屋の、この席が一番好きなのだろう?
 マイクロフトがそう言って、完璧な――完璧すぎてわざとらしい、と弟なら言うであろうほどに完璧な――ウインクをひとつ、マグヌセンに投げた。
 マイクロフトの言葉に、マグヌセンはたっぷり十秒ほど、固まっていた。マイクロフトの言葉を、ゆっくりと噛み砕いているようだった。
 そうしてようやくマイクロフトの言葉を理解し終えた彼が、みるみるうちにその表情を変えていく。――誰が見ても間違えるはずのない、それは喜びの笑顔だった。
 嬉しさのあまり立ち上がった彼は、手に持っていた英会話の本を子供のようにぶんぶんと振った。その口から出てくる言葉は英語ではなくデンマーク語である。咄嗟の事態に出てくる言葉は、やはり母国語なのだろう。――本来のマグヌセンも、そうだったのだろうか、とマイクロフトは詮無いことを考える。
 あの頃のマグヌセンも、驚いたり喜んだり、想像だにしない事態に遭遇すれば英語ではなく、母国語でマイクロフトに話しかけることもあったのだろうか。
 実のところ、マグヌセンが母国語で話すところをマイクロフトは見たことがなかった。監視カメラ越しであればいくらでも聞いたことはあったが、直接見たことはなかった。ビジネスの話をするときにはお互いに英語であったし、マイクロフトがわざわざデンマーク語で話しかける必要など一度もなかったのだ。

「ありがとう、ありがとう、マイクロフト!」

 マグヌセンの大声に、マイクロフトの意識は過去から現在へと引き戻される。唯一テーブルの向こうから見えていたのだろう、マイクロフトの傘の柄を持つ手を両手で握り、彼は言葉を続けようとした。

「たくさん、たくさんききたいことがあるんだ! えっと、あー、えいご、英語で、えっと、なんていうんだったかな――」
「落ち着きなさい」

 さりげなくマグヌセンの手を払いながら、マイクロフトは言う。

「今日は寝るまで、君の話に付き合うから」
「本当に!」

 マグヌセンはマイクロフトが手を払ったことにも気付いていないようだった。喜びという感情の前には、いかなる感情も叩き落とされるのだ。それが必要な情報であったとしても。
 気付けていたなら――マグヌセンはこのあと、マイクロフトに騙されることなど、なかっただろうに。


第1話【終】