02
ジャニーンが退出したことを確認し、マグヌセンはもう一度深い溜め息を吐いた。――嗚呼、酷いものを見た。
それしか頭に浮かばない。手紙の上に置いた自らの左手を開いては閉じ、閉じては開いて呼吸を整える。意を決して、マグヌセンは再び手紙に手をかけた。
入っていたのは写真だった。そして、一通の手紙。目を背けたのは無意識だった。そうしたところで意味のないことだと分かっていても、誰しも不快になるものを前にすれば自然、視線を逸らしてしまうものである。
「…………」
写真は一枚。
添えられていた手紙には、乱雑な文字が並んでいる。
「地獄に落ちろ、ね……」
筆跡は差出人のものだ。
そして――写真に写っている死体も、差出人本人のものだ。
そこまで確認して、マグヌセンは再びそれらを封筒の中へと戻した。そしてその封筒ごと、シュレッダーにかける。がりがりとシュレッダーは紙を噛んでいき、やがて食べるものもなくなったそれは沈黙した。もうお昼時であることを、マグヌセンは不意に思い出した。
そんなことはどうでもいいと、マグヌセンは椅子にことさら深く腰掛け、目を閉じた。マインドパレスを降りていき、その入口付近の棚に保管されたファイルを手に取る。
そこにははっきりと、先ほど見た写真と手紙が収められていた。このときばかりは、数秒見ただけで細部まで記憶してしまう自身の記憶力を恨む。
差出人の男は飛び降り自殺をしたようだった。
そしてその写真を誰かに撮らせ、マグヌセンの元へと送らせた。
一体なんのためにそんなことをしたのかを、マグヌセンはよく分かっている。この手のことは、過去に何度かあったからだ。
「ただの嫌がらせのために、死体を晒すか。……馬鹿馬鹿しい」
たまにあることだった。自ら命を絶つしかないところまで追い詰められた“ビジネスパートナー”が、なんとかマグヌセンに一矢報いてやろうと、こういった写真を送りつけてくるのは。
セキュリティも秘書も、ボスに宛てられた手紙を読むことは許されていないだろう。また危険物が入っているわけでもないため、手紙はほぼ確実にマグヌセンの手元へ届く。
そう考えた彼らは一様に、マグヌセンにこういった手紙を送ってくるのだ。もしそれにマグヌセンが腹を立てたとしても、送り主は既に死んでいる。死人を恐喝することはできない。どうせ死ぬならと、“ビジネスパートナー”たちは足掻いたのだ。
マグヌセンの記憶に焼き付ける。
少しでも、マグヌセンがそれで苦しめばいい。
そんな、プライマリースクールに通う学生たちのささやかな嫌がらせ程度のことしか、彼らは行うことができなかったのだ。
死した彼らもそれが分かっていた、それでもやらずにはいられなかった。――嫌がらせ。自分たちにできることが、それくらいしかなかったとしても。
しかし、死した彼らは知らないだろう。
これは、この嫌がらせは、ことマグヌセンに対しては、効果覿面だということを。
マグヌセンはファイルから写真と手紙を取り出し、ファイルを元の棚に戻した。そしてさらに奥へと進んでいく。
マインドパレスの最奥部。
滅多と立ち寄らないその場所は、錆びた鉄の扉に南京錠をいくつもかけることで固く閉ざされていた。
その扉は風がないにも関わらず、かたかたと音を立て震えていた。中に収めてある記憶が、マグヌセンの接近に伴い飛び出そうとしているのだ。――思い出せ。
忘れるな。
まるで、そう言っているかのように。
「――忘れられるものなら、そうしたいのだがね」
当然、脳内に収められた記憶が喋りだすなど有り得ない。“歩く英国政府”とも呼ばれたあの男の、あるいはその弟のマインドパレスなら、情報が人の形をとって話し出すこともあるかもしれない。だが、マグヌセンのマインドパレスにそれはない。
この尊き宮殿に、人を冠する者は自分だけでいい。
「…………」
マグヌセンは意を決して鉄の扉に手をかけた。ひとりでに南京錠が外れ、ばらばらと床に落ちていく。
それと同時に、先程までうるさいほど震えていた鉄の扉はしんと静まり返った。――そうだ、それでいい。お前たちがいくらここから出ようとしても、この宮殿の主は私だ。
お前たちでは、ない。
鉄の扉を押し開く。その先にある部屋は、極めて薄暗かった。開けた扉から光が差し込んでいるにもかかわらず、奥の壁がどこにあるのかが見えないほどに。
足の踏み場もないほどの紙の山が、その部屋の全てだった。
他の部屋のようにファイリングされることもなく、投げ捨てられている記憶たち。マグヌセンはその部屋の中に足を運ぶことなく、手に持っていた手紙と写真を中に投げ捨てる。それらが床に散らばることを確認して、彼は鉄の扉を閉めた。集中して、南京錠をつけていく。いくつも、いくつも。
“ガラクタ”置き場から、決してそれらが逃げないように。
思い出さずに済むように。
*
マグヌセンは、忘れられない男だった。
人間の頭は、記憶したものを忘れることができるように作られている。これはシャーロック・ホームズやマイクロフト・ホームズ、ジム・モリアーティやその他の天才、秀才、凡人全てに、本来なら共通するものである。
しかし、マグヌセンはそうではなかった。
彼の頭には生まれつき、記憶を捨てるべき場所であるダストボックスがなかったのだ。
だから作った。それだけのことだった。
*
マグヌセンはゆっくりと目を開けた。見慣れた執務室の天井をしばらく眺め、彼は力なく首を横に振る。――扉の残像が消えない。
マインドパレスの最奥部に位置しているのに、否、最奥部に位置しているからこその存在感。忘れられない。
机の上の時計に目を落とすと、ジャニーンを帰宅させてから三十分ほど経過していた。これなら昼食を食べながら午後の予定を考える時間はありそうだ。
備え付けられている小型の冷蔵庫に近付き、中から携帯食を取り出す。昼食は軽いものと決めているのだ。夜にしっかり食べればいいだろう、こういうときに太りにくい体質は助かる。
固形物を咀嚼しながら、シュレッダーのゴミを捨てた。――こんな風に、自分の記憶も捨てられたらいいのに。
「ままならないものだな」
街を一望できるガラス窓の前に立ち、マグヌセンは雲ひとつない青空を憎らしげに見つめる。――ああ、そろそろあの“ガラクタ部屋”も拡張しなければならない。
再びあの部屋の前に立たなければならないのかと、マグヌセンは深い溜め息を吐くしかなかった。
秘密と嘘が埋める部屋【完】