第4話
「お呼びでしょうか、Sir」
ディオゲネス・クラブ。その中にあるマイクロフトの執務室で、2人は対峙していた。一方は扉を背にして立ちながら、もう一方は椅子に座り机の上で指を組みながら。
「ああ、呼んだとも。私の記憶が正しければ、3日前から呼び出していたはずだがね?」
マイクロフトの嫌味を受けてもレストレードはにこにこと笑っている。入室を許したときからレストレードの様子を観察しているが、彼は気まずそうな顔ひとつしない。自分は何も悪いことなどしていません、といった様子だ。
マイクロフトの知るレストレードなら、ここで気まずそうに頭をかきながら言い訳の1つでも始めるところだった。――いえ、あの、これには事情がありまして。
そんな、彼の謝罪から会話が始まるはずだった。
しかしそうはならなかった。止むに止まれぬ事情があるわけでもないことは監視の目から分かっている。それでもこちらが把握しきれない何かがあったのかもしれないと彼の観察を続けていたが、マイクロフトは観察していた目を閉じた。――そんなものはない。
この男、この状況を愉しんでいる。英国最高レベルの監視さえ出し抜いて!
「ヤードの正面玄関、裏口、窓という窓、果ては上層部しか知らない隠された地下通路まで。ヤードからの出入り口になるようなところには全てに監視をおいたというのに……一体君は、どこからヤードを出て、どの道を通って、自宅に帰っているのかな?」
――ぜひともお聞かせ願いたいものだ、そのトリックを。
マイクロフトは友好的な関係を保つために浮かべる笑みをやめ、レストレードを睨めつけた。政治の暗部、表の世界からは決して触れることのできない世界で使うそれ。相手を問答無用で下に置き、自身を上へと押し上げる。上下関係を明確に示し、自身に従わせるためのもの。
レストレードも気配の変化に気づいたのだろう、体を固くし、目を見開いている。――さあ、教えろ、レストレード。君は、何を隠している?
重い沈黙が部屋に降りた。どちらも動かない、動けない。時間だけが過ぎていく。レストレードは驚いた顔のまま固まっていたが、やがてふう、と息を吐き出した。
「――まあ、そういう反応になりますよね」
一瞬。
一瞬だけ、レストレードの表情がマイクロフトを嘲るものになったことを、彼の優秀な目は見逃さなかった。
「レストレード警部、我々はもう少し話し合うべきだと思うのだが――」
「その前に1つ、いいですか」
レストレードがマイクロフトの言葉を遮るのは初めてだった。マイクロフトは驚かない。すでに目の前の男が自身の知るレストレードとは異なっていることを、彼は十分に理解している。新たな観察の必要性、場合によっては排除さえ検討している。そんなマイクロフトの気も知らない――あるいはあえて無視しているであろうレストレードは、くるりとドアの方を振り向いて、口を開いた。
「入ってこいよ、シャーロック、ジョン」
数秒の沈黙の後、部屋に入る唯一の入口が開かれる。扉の先、廊下にはシャーロックがつまらなそうに、ジョンが気まずそうに立っていた。
「なぜ気付いた」
マイクロフトの問いに、レストレードは肩をすくめることしかしなかった。答える気はない、その意思表示だ。――気付けなかった、レストレードが2人の存在に気付いていることに、マイクロフトは気付けなかった。あのマイクロフトが、だ。
「それより逆に教えてくれ、なんでお前達までここに?」
「あんたが電話に出ないからだ、ギルバート!」
「グレッグだ! ……ああ、なるほどな。アメリアの件はまだ調べがついてないぜ」
「それも含めて話があるから連絡をしているのに、なぜ出ない!」
「あー……まあ、ちょっと落ち着け、な?」
まあまあとシャーロックを宥めながら、レストレードはジョンの方を見る。
「悪いな、ジョン。シャーロックを抑えるのは大変だったろう?」
「……全くだよ。当然、詳しい説明はしてもらえるんだよね?」
ジョンの鋭い視線とその言葉を受けたレストレードは、先ほど肩をすくめて答えなかった問いにも答えろと言われていることに気付いた様子だった。それでも、レストレードはにこりと笑うだけで、やはり答えなかった。
かつん、と鋭い音が部屋に響く。マイクロフトが傘で床を叩いた音だ。
「レストレード警部。我々も暇ではない、お答えいただけるかね」
「なら、ちょっとしたゲームをしませんか」
そう言ってレストレードはウインクを1つ、マイクロフトへと投げた。たった今暇ではないと伝えたばかりなのに、この男は何を言っているのか。マイクロフトは更に言い募ろうと口を開いたが、レストレードのほうが少し早かった。
「もしこのゲームであなた方が勝ったなら、なんでもお答えします。聞かれたことには何でも。事件の真相、監視カメラの謎、マイクロフトの包囲網から逃げきった方法。なんなら私の体の性感帯がどこかだって教えたっていい。聞かれたらね」
「最後の情報は必要ないが、それ以外は教えてもらおう」
「ちょっと待って!」
そのままとんとん拍子で話が進んでいきそうな流れを、ジョンが断ち切った。
「事件の真相も答えるって……グレッグはもう分かってるのか? 調べはついてないってさっき言ってたじゃないか!」
「まあな。今回の件はちょっとシャーロックには……あー、別にシャーロックじゃなくてマイクロフトであっても、解くのにはもっと時間がかかったかもしれない」
「なんだと?」
シャーロックの目に剣呑な光が宿る。
「なぜそう思う」
「そりゃあお前、お前らが科学的な天才だからだよ」
「は?」
「ときには凡人の弱い頭のほうが真相に近付けるってことだ」
――さて。
レストレードはわざとらしく咳払いをして、マイクロフトに向き直る。
「ゲームにはのってくれるので?」
「内容による」
「ですよね」
レストレードの提案したゲームはこうだった。一言で言うなら、《レストレードを見つけろ》。
レストレードはディオゲネス・クラブから自宅まで徒歩で帰る。その道のりの間に、3人のうち誰か1人でもレストレードを見つけられたら3人の勝ち。3人に見つけられることなく自宅まで帰ることができれば、レストレードの勝ち。
帰る道順は問わないが、ゲーム開始から5時間以内に帰宅すること。レストレードは、帰宅に成功したらすぐに連絡を入れる。
スタート地点はこの建物に詳しいマイクロフトが決める、ただし1階のどこかにある部屋の中から。
レストレードはその部屋の中からディオゲネス・クラブの出入り口に向かい、自宅へと帰る。裏口も窓も使用可能。
3人はどこから探し始めてもよい。ただし、レストレードの自宅の中や自宅の玄関の前での待ち伏せ、自宅の玄関を映した監視カメラによる発見はルール違反、即失格。
「見つけるとは、具体的にはどんな状況を指す? 視界に入ったらOKということか?」
「それでいいぜ」
「マイクロフトの部下が見つけた場合はどうする? グレッグ」
「それは無しにしよう。でも部下の情報を受けた3人のうちの誰かが、俺を視界に入れたなら成立ってことで」
「私が監視カメラで見つけた場合はどうする」
「その時は連絡をください、Sir。この時間に、このカメラから見つけたと」
「……グレッグ。もう自棄になってない? マイクロフトの“目”はどこにでもあるぞ?」
「自棄になんかなってないさ、俺は勝てるゲームをしてるんだから」
ジョンにはその言葉が信じられなかった。それもそうだろう、彼が相手取ろうとしているのは、稀代の名探偵、そして“歩く英国政府”。レストレードの行動パターンを割り出しその道を潰し、一つの場所に追い込むことなど彼らには容易いだろうし、そもそもマイクロフトの監視カメラという名の“目”はどこにでもある。――監視カメラからも逃げようというのか、この友人は。
「どうでしょう?」
レストレードはぐい、とマイクロフトの顔を覗き込んだ。彼はにまにまと笑っている。この部屋に入ってから、レストレードはずっと笑顔だった。にこにこ、にこり、にやにやと。
彼は勝てるゲームをしていると言った。勝つ自信があるのだ。どこからどう見ても3人が有利としか思えない、このゲームに。
マイクロフトは3日前の記憶を呼び起こした。監視カメラの映像から突如として姿を消したレストレード、焦る部下の声。――今回、監視カメラは役に立たないと考えるべきだろう。おそらくは、人の目も。
レストレードが監視カメラの前から姿を消したとき、マイクロフトはすぐ、ハッキングの形跡を探した。映像の書き換えを疑ったのだ。しかし結果は芳しくなかった。そうした形跡は一切なく、プログラムはこれまでどおりの挙動を繰り返していただけだと分かったからだ。外部からの攻撃はない、部下の報告と現場の状況から推理してみても、何かしらのトリックを使った痕跡もなかった。ならばそこから導き出される答えは? ……極めて非現実的、非科学的なものしか残らない。
マイクロフトの脳裏に、弟の言葉がフラッシュバックする。――“不可能を消去して残ることが何であれ真実だ”。
彼の行動パターンを思考の中で確認する。5時間という時間制限は長いように感じるが、実のところそうでもない。ここからの距離を考えれば思っているよりもギリギリの時間制限だ。つまり自宅に到着するまでにレストレードが使える道は多くない。寄り道がすぎればタイムオーバーになるからだ。
予想される道の全てに部下を配置する。万一に備えて我々兄弟も力を合わせることを視野に入れなければならないだろう。英国政府の監視さえ物ともせず、それだけの能力をマイクロフトに隠し通せていたのなら、もはやレストレードをただの凡人と侮ることはできない。
ゲームにのらず、権力と立場を活用してレストレードに内容を吐かせることも考えた。そのほうが手っ取り早いだろう。
だがマイクロフトは、それが無意味であることを半ば理解していた。言葉では説明できない感覚、監視カメラの映像の中でレストレードが立ち止まったときに覚えたそれと同じ。――何かが、起こる。このゲームで。
「……いいだろう、いつから始める?」
「あと30分でちょうど1時になります。1時から開始というのはいかがです? 部下の配置にも時間がかかるでしょう?」
――かくして、交渉は成立した。
スタート地点は、玄関からも裏口からも遠い部屋が選ばれた。窓はなく、出入り口は廊下に繋がるドアがひとつだけ。
レストレードが、手を振りながらその部屋の中へと入っていく。扉が閉じられる、その最後まで、彼は笑っていた。
ひどく、ひどく、楽しげに。
第4話【終】