第5話
マイクロフトはレストレードが入っていった部屋の扉に、外側から鍵をかけた。それを見たジョンはぎょっとして、咄嗟に抗議の声をあげる。
「えっ、ちょっとそれは」
「彼は禁止しなかっただろう? なにか問題でもあるかい、ジョン」
「……いや、まあ、そうですけどね?」
たしかに禁止事項の中に、“外から鍵をかけてはいけない”という項目はなかった。『では問題ないだろう』と言って、レストレードのいる部屋から離れていく2人を、ジョンは慌てて追いかける。
レストレードがいる部屋から少し離れた場所、しかしその扉の様子を確実に確認できる場所で、マイクロフトとシャーロックは、部下の配置を話し合い始めた。珍しくシャーロックは文句の一つも言わずにマイクロフトの隣で同じ画面を見つめている。ああでもない、こうでもないと。――兄さん、あんたは馬鹿なのか。ここに部下を置いたんじゃ逃げられる。――それはお前の方だ、シャーロック。よく考えなさい。
「……珍しいね、シャーロック」
「僕が兄と協力していることがか」
「うん」
「好きで協力しているんじゃない。ただ――」
そこでシャーロックは言葉を切り、少しの逡巡の後、小さく言った。
「レストレードが、読めなかった」
「……やっぱり? 観察でってことだよな?」
シャーロックは神妙な面持ちで頷く。
「いつもならうるさいくらいに飛び回っているあいつの情報が、まるでなかった。……前回以上に読み取れなかった」
「それは……」
事件現場に入る前、シャーロックはいつも、求められてもいないのに読み取った情報をつらつらと読み上げている。見ただけでわかるなんて魔法みたいだと今でも思うが、前回に引き続き今回もそれはできなかったとシャーロックは言う。それも前回以上に情報が制限されているらしい。――なぜ?
シャーロックの目が――その頭脳が、急に衰えたということはないだろう。ならば、レストレードが意図的に読めないようにしていると考えていい。――それは、なぜ? いったいどうやって?
20分に及ぶ問答の末、無事に部下の配置は完了したようだ。その間にジョンができることは残念なことに何もなかったので、手持ち無沙汰にレストレードのいる部屋の扉を遠くから見つめ続けた。一応、レストレードが部屋から出てきたらすぐに報告できるようにとの思いから行った監視だ。扉は揺れることすらしなかったが。
「では、我々も配置につこう」
マイクロフトがかつりと傘の先で床を叩く。そしてレストレードのいる部屋へと向かって歩き出した。続いてシャーロック、そしてジョン。
「どこに? やっぱり玄関と裏口に二手に分かれて?」
「ジョン、僕たちはこんな結末の見えているゲームを長々とするつもりはない」
シャーロックは前を見据えたまま答える。
「ここにいれば逃げられないからな」
そう言ってマイクロフトとシャーロックは、レストレードのいる部屋の前に立った。
「……確かに、どこから始めてもいいって言ってたし、この部屋の前で出待ちすることを禁止してもいなかったけど。さすがにさあ……」
開始と同時に決着がつくようなゲームは、さすがにつまらない。それなら部下なんて動かさなくても良かったじゃないか。かわいそうに、眠いだろうに。
スリルジャンキーのジョンは、小さく口を尖らせた。ちらりとマイクロフトを見れば、なんの感情も読み取れないいつもの表情だった。ジョンは大きくため息をつき、シャーロックを見遣る。
「何を聞く予定なんだ?」
「僕の方からは、事件の真相、なぜ僕たち2人が部屋の外にいることに気付いたのか。そしてなぜレストレードの情報が読み取れないのか」
「私は監視カメラの件、そして監視の目を潜り抜けたそのトリックを」
「監視カメラ?」
「こちらの話だ、そのときになれば説明する」
マイクロフトが懐中時計で時刻を確認する。
「あと5分」
マイクロフトの無機質な声が廊下に響く。ジョンはちらりと部屋の扉を見た。中にいるレストレードにも聞こえているのだろうか。
「外の音は聞こえないぞ、ジョン」
「心を読むのはやめてくれ、シャーロック」
「読まれやすい君が悪いのでは?」
そこから長い沈黙が続く。部屋の中の音は何も聞こえてこない。きっと防音なのだろう。
「あと1分」
ジョンは頭の中で秒数を数え始めた。59、58、57、56……
午前1時ジャスト。2人がジョンに目配せをする。開けろということだろう。――そういう雑用みたいな仕事はすぐ僕にやらせるんだから、こいつらは。
首を横に振り、ジョンはマイクロフトから鍵を受け取った。躊躇なく解錠し、レストレードのいる部屋の扉を勢いよく開けた。
「さあ、話を聞かせてよ、グレッグ!」
ジョンの声が部屋に響く。テーブル、ソファー、花瓶、灰皿、絵画、棚。ジョンの声が反響し、消える。
静まり返る部屋。
「……グレッグ?」
完全に閉ざされた密室空間。――あるはずのグレッグ・レストレードの姿は、そこになかった。
まるで時が止まったかのように、誰も動かない。目の前に広がる現実を理解できないのは、どうやらジョンだけではないらしかった。
レストレードがこの部屋の中に入っていくのは確認した。3人の目で、確実に。そして、彼が出ていく姿を、3人は見ていない。――ならば、彼はどこに消えた?
「探せ!」
マイクロフトの声に、弾かれるようにジョンは部屋の捜索を開始した。――隠し通路だ、きっとそれがどこかにあるに違いない。
ジョンが窓やら壁やらを叩いている間、マイクロフトはこの部屋の設計図を思い出しながら部屋の中を観察していた。――部屋の中の灰皿には、火をつけてすぐに消したであろう長い煙草が捨てられている。これはレストレードの愛用品だ。彼は確かに、ここに、いたのだ。こんな安物の煙草を、この部屋を使う人間は吸わない。匂いこそ部屋の中にこもっていないが、レストレードはこの部屋で煙草を吸おうとし、何を思ったかすぐに消したのだ。……この状況で、呑気にも煙草を吸おうとしたというのか。
「マイクロフト!」
シャーロックがマイクロフトに詰め寄った。今にも胸ぐらをつかみかねない勢いだ。
「シャーロック、私の記憶によればここに隠し通路はない。私の知らない間に作られたのかと思ったが……見ての通り、ないようだな」
「馬鹿な! ……レストレード!」
ジョンが呆然と立ち尽くしている。あたりを見渡し、それでもその場から動けない。シャーロックがレストレードを呼び、あるはずのない返事を数秒待って、それがないことを確認したのち、マインドパレスへと旅立った。レストレードが姿を消した、そのトリックを暴くために。
マイクロフトは部屋を出てその扉を締め、すぐ側の壁に体を預けた。ひとつ息を吐いて、彼はモバイルを操作し、部下にレストレードがディオゲネス・クラブから立ち去ったことを知らせる。了解の文字を確認し、マイクロフトはモバイルを閉じた。
――人が消えた。直接その瞬間を見たわけではないが、直接見たに等しい状況だ。どこだ、彼はどこに消えた?
ふと、マイクロフトの前で空気が動いた。ふわりと何かがマイクロフトの鼻先をかすめたのだ。――風か?
廊下に窓はなく、部屋の扉も閉めた今、どこからも風が入ってくるはずがないのに。すんと鼻から息を吸い込んで、マイクロフトの思考は、極めて珍しいことに完全に停止した。
咄嗟に目の前に手を伸ばす。なにもないことは分かっている、だが手を伸ばさずにはいられなかった。当然のように手は空を切る。何もない、そう、目の前にはなにもない。廊下と壁、それだけだ。
「―――」
鼻先をかすめたそれは、たしかにレストレードの愛用する煙草の匂いだった。
第5話【終】