第6話
曇り空。冬の訪れを告げるような冷たい風。
ベイカー街221Bの空気は張り詰めていた。ただひとつ、シャーロックの奏でるヴァイオリンだけが響いているが、それは空気を和らげるどころか、その緊張に一役かっているものだ。
「なあ、シャーロック」
ジョンはいつもの椅子に座りながら、窓際でヴァイオリンを奏でるシャーロックに問いかける。
「グレッグはまだ見つからない?」
「……マイクロフトでさえ、見つけられてないそうだ」
ぎゅいん、と耳障りな不協和音を器用にヴァイオリンで奏でてみせたシャーロックは、ヴァイオリンを近くのソファーに放り投げ、ジョンと向かい合わせの席に座った。不機嫌な顔を隠しもしない。
少しでも場の空気を緩めようと、つとめて明るい声でジョンは言う。
「休暇届も出してないから、ヤードは大騒ぎらしいね。ニュースにもなってる」
「〈スコットランドヤードの警部、消息不明。失踪か?〉……失踪なら、ただの失踪だったなら僕たちで足取りを掴めるさ」
レストレードが姿を消し、早一ヶ月が経過していた。
今もなお、彼は行方をくらませている。
「君も世俗のニュースを見るようになったようで何よりだよ、相変わらず危険な組み合わせだけど。……僕やグレッグの行き先なんて、それこそ君たち兄弟にとったら頭の体操にもならないはずだったのに」
どこ行っちゃったんだよ、グレッグ。
ジョンはあの日から忽然と姿を消し続けている友人に問いかけた。答えなど、返ってくるはずもなかったけれど。
***
あの日。
レストレードをディオゲネス・クラブで見失ったあの日から、彼の行方は分からなくなった。正確に言うならば、彼から送られてきた一通のテキストを最後に、彼の消息は途絶えた。
〈帰宅成功。俺の勝ちだな! GL〉
その後すぐにレストレードの自宅へと急行した3人だったが、彼らを出迎えたのは家主のいない部屋だった。鍵は開いていた。中へと踏み込めば、つい先程まで人がいた形跡は残されていた。
コーヒーに湯気が立っている。焼き立ての食パンが、まだ熱い状態で皿の上に残されていた。二口程齧った跡があった。
あるべきレストレードの姿だけが、なかった。
フラット付近の監視カメラの映像には、扉を開けて中へと入っていく彼の姿が映し出されていた。そしてもう、想像がついているように――そこから彼が出ていくところは、映像に残されていなかった。
扉は締まり、それから一度も開いていない。フラットの裏手にある監視カメラも呼び出した。映し出される窓ガラス、そこも一度も開けられていない。映像として残っていない。このフラットに隠し通路はない。
先ほどまで確かに人がいたであろう痕跡。それにもかかわらず誰もいない部屋。家主を招き入れたきり、開く様子を見せなかった扉と窓。
それ以降、レストレードの姿を目撃したという者はいない。
***
「なにか事件に巻き込まれたとか……?」
「事件に巻き込まれたにしても、姿が消えるトリックがわからないことにはどうしようもない。そもそもそんな事件があれば、兄が気付かないはずがない」
口の前で手を合わせるいつものポーズをとりながら、シャーロックは眉根を寄せる。それを見て、ジョンは今回の事件はこれまで以上に厄介であることを改めて理解した。マイクロフトもシャーロック、稀代の天才2人をしても彼の行方はわからない。
頭をよぎるのは、焦燥しきった2人の警察官の姿だ。――警部はどこに行ったの。あんたなら見つけられるの? 依頼すれば見つけてくれるの?
涙ぐんだ彼女の声が、ジョンの頭の中を反響する。警察でも当然捜査は進められているが、やはり進展はないのだろう。あの二人がシャーロックを頼ろうとするなど前代未聞だ。彼らはよほど追い込まれている。
「一応聞いとくけどさ、変装してると思う? なんで変装してるかとかは分からないけど、もう可能性としてはそれくらいしかないよな」
「まず間違いなく変装はしているだろう。良くも悪くも、あいつの顔は世間に割れているからな。だが、イギリス全土、すべての人間の顔を観察するわけにもいかない。そもそもイギリスにいるかさえ定かじゃない。ある程度場所を絞って調べなければ」
「……なんで失踪したのか、原因がわからない限り行き先もわからないからね。絞れないよなあ……」
失踪理由を調べるために、家宅捜索や知人への聞き込みなどは当然行われた。しかし、めぼしい情報は一つもなかったといっていい。今度開かれる飲み会を彼はとても楽しみにしていたようだし、近々控えていた同僚の結婚式にも出席する予定で、友人代表挨拶も任されていたようだ。それを負担に思う人間ではないし、それを土壇場で投げ出すような人間ではないことは、皆知っていた。
彼が姿を消す理由が、彼と親しい人間であればあるほど分からなかった。
「唯一、失踪の理由として考えられたのが、あの事件だ」
「アメリアの事件だね。グレッグの様子がおかしかった、あの……」
「ああ。――奴は何かを知っていた、隠していた」
シャーロックが目を閉じる。息をひとつ吐いて、再び目を開ける。
「別件があると言っていたが、ヤードに残されていたそれは、まるでアメリアとの関連性はないものだった。奴の言っていた“別件”はそれじゃない、もっと別の、おそらくはヤードも噛んでない話のはずだ」
それさえ分かればと、苦虫を噛み潰したような声でシャーロックが呟く。いつの間にそんなことを調べていたのだろうとジョンは思ったが、憔悴しきっていたあの2人の警官の姿が脳裏をよぎった。今の彼らなら、どんな情報もシャーロックに渡すだろう。
「それに、ヤードもレストレードどころではなくなってきている。もうヤードは使い物にならない」
「……“吸血鬼事件”?」
「そう」
ジョンは部屋の壁に貼りつけられた新聞紙に目を向けた。――〈失血死体、再び。霧の都ロンドンに現れし“吸血鬼”の謎〉。
いま世間を賑わせているのは、もっぱらこの事件だった。俗称、“ロンドン吸血鬼事件”。なんとも分かりやすい、しかし事件の概要を説明するにはこれ以上ないタイトルだった。
「全身の血が抜かれてるんだってね」
「そして、首元には2つの穴」
ジョンの言葉に続けるようにシャーロックが言う。――不可思議な事件が、ロンドンで相次いでいた。奇しくもレストレードが姿を消した、その数日後から。
この一ヶ月のうちに、5人の男女がその犠牲になっている。年齢や性別、地域に職業、果ては家庭環境に至るまで比較されたが、そのどれにも当てはまる共通項はほとんどなかった。通り魔に近い犯行だ。
共通項としてあげることができるものは、それがロンドンで起きているということ、そして全身の血が抜かれているということだけであった。
「傷口はその2つの穴だけ。そして逃げようとしたときに付いたであろう擦過傷、そのほか、細々とした傷。大量に出血するとすればそれは首元の2つの穴以外考えられないが、全身の血を抜きとるにはあまりにも小さな傷だ。なにより、殺人現場があまりにも綺麗すぎる。――傷口から、直接血を啜るか抜き取るかでもしないかぎりは」
「詳しいね、シャーロック。ヤードに呼ばれてたっけ?」
「マイクロフトが依頼を持ってきた」
「マイクロフトが? いつの間に。というか、受けたの? あのマイクロフトからの依頼を、君が?」
「ああ、受けた」
「……なにか兄弟間で交渉でも? 今度どこそこの施設に入れてくれ兄さん、とか――」
「してない。依頼され、そのまま引き受けた」
即答するシャーロックに、ジョンの丸い目がさらに丸くなった。――グレッグのことといい、シャーロックのこの様子といい、なんだよ、ここ最近、おかしなことばかり起きてやしないか?
事ある毎に兄を毛嫌いする様子を見せるシャーロックが、マイクロフトからの依頼はたとえ興味があってもそうじゃない振りをするシャーロックが、真正面から依頼を受け、そしてそれを引き受けたというのか。いよいよもって、レストレード失踪から続く“ロンドン吸血鬼事件”はきな臭いものとなってきているようだ。
「アメリアの事件の詳細を覚えているか、ジョン」
「覚えてる。……アメリアの遺体にも、2つの穴があった」
「そうだ、ジョン。世間の馬鹿たちは、死因の違いからその始まりを誤解しているようだが――“ロンドン吸血鬼事件”は、あのアメリアの事件から始まったと考えていい。だから疑われている」
「誰が? ……何を?」
「レストレードが。……この“ロンドン吸血鬼事件”の犯人ではないか、と」
「なんだって!?」
ジョンは大きく身を乗り出す。
「グレッグがそんなことするわけ……!」
ジョンはそこまで言って、言葉を詰まらせた。
たしかに、彼が姿を眩ませた時期と、この連続殺人事件が始まった時期とはほとんど重なっている。ましてやアメリアの事件があったとき、現場にいた彼は明らかに様子がおかしかった。シャーロックどころか、その場にいたドノヴァンやアンダーソンでさえそれに気付いていたのだ。関連性を、疑うことに道理はある。
道理はあるが、それでもジョンには信じられなかった。そしてシャーロックとしても、少なくともジョンの言葉に近しい気持ちは持ち合わせていたらしい。
「少し前の僕なら、『アイツにこんな高等な事件を起こすことなんて出来やしない』と嘲笑っていただろう。……だが、既にそうは言いきれない状況だということを、ジョン、君もよくわかっているはずだ」
――あの日、レストレードはどのような手段で、ディオゲネス・クラブから行方を眩ませたのか。
「僕達を出し抜いたあの謎が、その可能性を補強する」
「……それは――」
つとめて考えまいとしていたことを真正面から指摘され、ジョン言い淀む。それに対して、シャーロックは珍しく、畳みかけるのではなく諭すように言った。
「ジョン。不可能を消去して残ることが何であれ真実だ。たとえそれが、どれだけ信じられない現実であったとしても」
「……シャーロック、君はグレッグを疑ってるのか?」
「可能性はある、と考えている。スコットランドヤードも、兄も、この僕も」
「…………」
朗らかに笑うレストレードの顔が、ジョンの脳裏に浮かんだ。
彼がこんな悲惨なことをしているだなんて、どうしてもジョンには思えなかった。可能性があるのは分かっている、彼が今、最も疑われている立場であることも分かる。あの日、姿を消したトリックだって分かってない。それでも――
「行くぞ、ジョン」
シャーロックの呼び声に、心の内に沈みこんでいたジョンの意識は瞬く間に浮上し、弾かれたように顔を上げた。シャーロックは既に立ち上がり、外へ出る階段へと向かっている。それにつられるように、ジョンも立ち上がり、慌ててシャーロックの後を追った。
「ちょっと待てよ! どこに行くんだ!?」
「マイクロフトのところだ。――依頼主に、現況報告といこう」
第6話【終】