第3話
白、白、白――
その庭園は、白い花々を基調に造られていた。英国を代表する花である薔薇や、白い花の定番のひとつであるマーガレット。
他にも様々な花が庭園には植えられているが、そのすべてが白い。今は盛りでないために咲いていない蕾も、花開けばその白い姿を惜しみなく人々の前にさらけだすのだろう。
西に傾きつつある太陽の、朱色の光がその白を淡く染め上げる。もう夕方であった。
「月下美人――という花がこの庭園で育てられている、というお話は、本当ですか?」
マグヌセンは庭園の各所に設けられたアンティーク風のベンチに座り、少し離れたところに立っているマイクロフトに問いかけた。マイクロフトに隣へ座るよう誘ったが、丁寧に断られたあとである。
かなりの広さがあるこの庭園を、マグヌセンは隅々まで歩いて回った。気になる花があれば立ち止まって、知らない花であればその名をマイクロフトに問いかけ、その姿を目に焼き付ける。ふと鼻を掠めた香りに気付けば、その香りのする方へと足を進めた。彼は庭園を歩き回り、見て回り、ときに立ち止まって深く呼吸をして、感嘆の息を口から零した。
花に誘われるままにふらりふらりと庭園の奥へと歩を進めるその姿は、いっそ無心といっていいほどに穏やかなもので、そこにあの“鮫”の姿を重ねることは難しい。今このとき、彼が纏うのは誰かが流した“秘密”という名の血の匂いではなく、花々のかぐわしいそれなのだった。
「もし本当であれば、その花の場所までご案内いただきたいのですが」
「……育てていることは事実だが、既に花の盛りは過ぎている」
「ですが逸話とは異なり、年に数回、あの花は咲くはずでしょう? そろそろその時期なのではありませんか?」
たしかに、マグヌセンの言う通りであった。
月下美人は一年に一度しか咲かない、と語られることがよくあるが、その逸話は偽りである。実際には、うまく育てあげることができれば年に数回、その花を咲かせるのだ。夜に咲き始め、朝にはその花弁を閉じてしまうという点は正しいが、月の満ち欠けが関係するという話も、月下美人の特殊な咲き方から派生したであろう逸話であり真実ではない。
当然、その数回の中でも盛りの時期というものはあるが、マイクロフトの言う通り、その時期はもう過ぎていた。それでもマグヌセンは見たいのだという。
「庭園を隅々まで散策したつもりですが、どうも見当たりません。月下美人は、その花を咲かせるために細やかな作業が必要とお聞きしますから、やはりどこか別の場所で育てていらっしゃるのでしょうか? よろしければ、ご案内いただけませんか」
「そんなに見たいのかね」
「見ることのできるものは、見ることのできる時に見るべきです。――人間というものは、いつ死ぬとも知れぬものですからね」
“彼”のように――そう呟いたマグヌセンの声を、マイクロフトは聞かなかったことにした。
「……お望みとあらば」
***
太陽は既に落ちきって、反対の空から満月が浮かびあがる。マイクロフトが案内した先で、マグヌセンは月下美人を前にしゃがみこんでいた。その花が開くときを、彼は今か今かと待っている。
しかし、花は一向に咲く気配を見せなかった。
「……ミスター・マグヌセン」
蕾の月下美人をじっと見つめているマグヌセンに、マイクロフトは憐れみを混ぜた声色で背後から声をかける。
「――月下美人は、いつ咲くか分からない花です。もちろん開花時期というものはあるが、他の花々のように、その時期になれば必ず花を咲かせるわけではない。貴方もご存知の通り、一年に数回咲くこともあれば、まったく咲かないときもある。そして今宵は美しい満月ですが、月の満ち欠けも、この花には関係がありません。……もちろんこの庭園に飾られている以上、その手入れは一般家庭のそれとは比べ物にならないほど丁寧にされておりますが、今日がその日であるとは――」
「……そうですね。少し、いえ、とても残念ですが――」
マグヌセンが、本当に残念そうにそう言って立ち上がり、月下美人に背を向ける。マイクロフトの方を振り向いたときにはわずかに翳っていた表情が、ぱっと明るくなった。
「ああ、ご安心ください。開花を見られなかったからといって、契約を反故にするつもりはありません。この庭園を案内してくださったことで、対価は支払われましたからね」
笑いながら、しかしそれでも少し落ち込んだ様子で、マグヌセンがマイクロフトの横を通り過ぎようとした、そのときだった。
マイクロフトは、その変化を見逃さなかった。
「ミスター・マグヌセン」
「なんでしょう?」
「――どうやら貴方は、運がいいようだ」
マイクロフトはそう言って、手に持っていた傘の先をマグヌセンの背後に向けた。それにつられるように、マグヌセンが背後を振り返れば――
「先ほどよりも少し蕾が開いている。――どうやら、今日が、年に数回の開花の日となったようだ」
マグヌセンが息を呑んだ音が、マイクロフトの耳にはっきりと聞こえた。
マグヌセンは月下美人に駆け寄り、勢いよくしゃがみこもうとして、不自然にその動きを止めた。そこからそろりそろりと動きを再開させて、ゆっくりと膝を地につけて、しげしげと月下美人を眺めている。開きつつある蕾の、その一瞬一瞬を見逃すまいとするように。――彼の類まれな記憶力は、彼の願いを裏切らないだろう。
時が経つにつれ、蕾が開いていく。その濃厚な香りが辺りに漂いはじめ、庭園の中で、その存在感を存分に示し出す。離れたところに立っていたマイクロフトの元にもその香りは届き、すう、と吸い込んだその芳香は、マイクロフトをして感嘆せしめるものだった。月下美人が完全に開花しきるときまでその香りを堪能しようと、マイクロフトは目を閉じた。
「――これが、見たかったのです」
マグヌセンが囁く。庭園の空気を包み込む月下美人の香りに、ゆるりと溶けるような声だった。
「マーガレット……月下美人。見たかったのです。ただ、この庭園を。――そう、たしかにそう言ったのですよ、貴方のご友人にも」
マグヌセンの言葉に、マイクロフトは閉じていた目を勢いよく開けた。彼の意識が、現実へと引き戻される。
「中途半端な知能は、むしろ邪魔でしかない。それならいっそのこと馬鹿である方がいい。……私の言葉に裏があると思うのは勝手だが、“裏がない”ということに気付けるだけの知能は、どうやら彼にはなかったらしい。――私は本当に、ただ、この花々を愛でたかっただけなのに」
マグヌセンは、青白い月の光をしらしらと浴びる月下美人を眺めている。マイクロフトに話しかけているわけではなく、これはただの独り言であるとマイクロフトは気付いた。今のマグヌセンの意識から、マイクロフトは完全に弾き出されている。――たった、それだけのために?
そう問いかけそうになった言葉を、マイクロフトはすんでのところで飲みこんだ。目の前の美しい景色に気を取られているマグヌセンの背後で、マイクロフトはその手に持つ傘の柄を強く、軋みかねないほどに強く握りしめた。
英国政府でも限られた者しか入ることのできない庭園。そこから見ることのできる景色。年に数回、一夜にだけ咲く月の花。――金にもならない、ただの自然風景。
たしかにこの庭園は美しく、月下美人の花開く姿も、それに伴い漂う香りも素晴らしいものだとマイクロフトは断言できるが、ここよりも美しい場所など、美しい花など、この世界にはいくらでもある。
そんなものを見たいがために、そしてそれをマイクロフトに要求するためだけに、マグヌセンは恐喝したというのか。今は亡き、マイクロフトの友人を。
たった、それだけのために。
マグヌセンが、世間でいうところの“美しさ”や“感動”といった感情を持ち合わせていることを知ることができたのは僥倖だ。その対象のひとつが、自然風景のなかにあることも。――アップルドアが自然に囲まれた場所にあり、そしてその建物内にも植物園のような道があったことを、マイクロフトは思い出す。
この情報がいつ利用できるかは分からないが、手持ちのカードは多い方がいい。マグヌセンの感性が、ホームズ兄弟よりもずっと一般的なものなのだとすれば、それに合わせた作戦の立案も可能だ。
「とても――とても美しい花ですね、ミスター・ホームズ――」
マグヌセンが、夜気に消え入りそうなほどか細い声で言った。まるで自分の声が、いま目の前で咲き誇らんとする花を壊してしまうことを恐れでもしているかのように。
その声色に、偽りはない。だからこそ、マイクロフトは胸の内で嘆息した。――もしも。
もしも今日このときが、誰も死なない――いつものビジネスの延長線上、その果てにあったものならば、マイクロフトの態度は多少なりとも変化しただろう。それも、おそらくは良い方向へ。
決してマグヌセンに心を許すことはない、そして友人となることもまた、ないだろうが、それでもマイクロフトの心の中にある天秤は傾いたはずだ。
しかし、現実に“もしも”はない。少なくともマイクロフトにとっては不要なものだ。
起きなかった可能性を考えて何になる? マグヌセンが今、ここに来ることができた理由はマイクロフトとの交渉の結果であり、その交渉が実現するために、一人の命が失われた。それが、紛れもない現実なのだ。
マイクロフトは己の内にある感情を冷静に客観視する。そして確信する。――ああ、私はいま、怒りを覚えている。ふざけるなと、マグヌセンに対して叫びたい気持ちでいる。
マイクロフトとて感情はある。人々は彼を“アイスマン”と呼んだり“南極大陸”と呼んだりして、彼の心は氷漬けだと言い表す。だが、マイクロフトも人間なのだ、誰がなんと言おうとも。
マイクロフトは沸き上がる感情を、傘の柄を両手で押さえつけることで制御した。丁寧に、丁重にラベリングをして、それを瓶の形にして、マインドパレスの棚へと飾る。
そうして、今このときに覚えたすべての感情をラベリングし終えたと思った頃に、マイクロフトはふと気付いた。――小さな、本当に小さな感情が、まだ収納されていないことに。
マイクロフトは強迫症のきらいがある。それはマインドパレスでも十全に発揮されていて、しかし何も分からぬままに捨てるということは、彼の性格にそぐわない。捨てるも捨てないも、その中身を知ってから判断すべきことなのだ。必要なものだったのにと、捨ててから気付いても遅いのだから。
ラベリングのため、マイクロフトはその感情を手に取った。――そして、彼はグッと眉根を寄せて奥歯を噛み締めた。なにかに耐えるように目を閉じる。再び目を開けたときにはその感情に対応するラベリングがされていて、彼の小指の長さほどの小さな小瓶が、その手に握られていた。
それを、棚の奥まったところに置く。ほかの瓶に隠れて、その小瓶が見えなくなるように。それが余計に、その小瓶の存在を際立たせる行為だと分かっていてもなお、マイクロフトはそうした。理由は異なれど、理性でも感情でも、そうすべきだと判断したのだ。
花の香りがさらに濃くなる。マイクロフトの視界の先、月下美人は完全にその花弁を開ききったようだった。誰も、なにも語らない。虫や鳥の声さえも聞こえない。まるで一夜で枯れるこの花の最後を、天地が静かに見届けんとするかのように、世界は静まり返っていた。
月が、傾いていく。
頭を垂れて、その姿を萎ませていく。
――そして、月は落ちきった。
「――ありがとう、とても素晴らしかった」
マイクロフトのことなどまるで気にしていない様子で月下美人を眺めていたマグヌセンが、にわかに立ち上がり、振り返る。そのときにはもう、マイクロフトは外交用の完璧な笑顔をその顔にたたえていて、胸の内の感情など欠片も外に出していなかった。
マグヌセンは、いっそ恍惚としているといっていい表情で語り出す。普段は青白い顔も、今この時ばかりは、わずかに紅潮しているようだった。
「この場所の話を聞いたときに、一度でいいから目にしたいと、ずっと思っていたのですよ」
その瞳には嘲りも、下卑た感情もない。目の前の光景に心を震わせる、これまで見てきたマグヌセンの感情のなかで最も美しいものが、そこに映っていた。
「実際にこの花が咲くところを、私は初めて見ました。写真や動画でなら何度でも見たことはあるのですが……貴方はご存知だったのですか? 今日が、このような景色を見ることができる日だと」
マグヌセンの口調は丁寧だ。そしてそれは慇懃無礼なものではなく、この景色を見せてくれたマイクロフトへの敬意が込められている。
そして、彼の母国語が英語ではないことも影響しているようだった。英語での小難しい言い回しが出てこないほどに、彼の心は感動に打ち震えているらしい。なんとか言葉を紡ごうとして、彼の英語はとても綺麗な、あるいは初心なものになっている。テキストブックの例文を流用しているような、自然だが不自然な英語だった。
それに対して、マイクロフトの心は冷えきっていた。そしてそれさえも自身の内側に閉じ込めて、マイクロフトは笑う。
「まさか。……さすがの私も、この庭園の花々に、ましてや月下美人に、今夜に咲けなどという命令は出せない。ただの偶然だ。本当に、貴方は運がいい」
「運がよくないとビジネスマンはつとまりませんから、その褒め言葉はとても嬉しいですね」
そこまで話して、マグヌセンはようやく自分の使っている英語が普段よりもずっと拙いことに気付いたらしかった。彼はほんの僅かに唇を尖らせて、ふいと視線を横に逸らす。小さく咳払いをして、彼はいつもより早口に捲し立てた。
「非公式ではありますが、私の母国、デンマークがマーガレットという花を国花としているのはご存知でしょう? 生まれも育ちもデンマークの私は、あの花がいたく好きでして。イングリッシュガーデンにもこの花は植えられますが、やはりメインとなるのは薔薇です。――ですが見てください、この庭園を。薔薇ではなく、マーガレットを主に抱いた、この白き庭園を」
マグヌセンが両腕を広げて、庭園を指し示す。
「最初は、貴方へのちょっとした悪戯のつもりだったのですよ。私の要求したものについて、貴方は誤解されたでしょう? あのホテルもそのつもりのためだったはずです。でもそうではないと知ったときの、貴方の顔が見たかった。さてどんな要求をしよう、要求の落差は大きい方がいいと考えていたときにね、少し前に聞いたことを思い出したのです。マーガレットを主とした庭園のことを。……そして、毎年、月下美人の花を美しく咲かせる、この秘された庭園のことを」
すう、と大きく息を深く吸い込んで辺りに漂う月下美人の香りを味わい、ほう、と力を抜いて息を吐くマグヌセンの姿が、月光に照らされ青白く光っている。
「月下美人とマーガレットの開花時期は、基本的にズレている。けれどここの庭園では、稀に同じ時期に咲くことがある。そうなるように、できるかぎりの調整している。重なる瞬間は滅多と見られるものではないが、見られたときの幸福感は言うまでもない――そんな話を聞いて、私はもっとここに来たくなりました」
その夢がようやく叶ったと、マグヌセンは嬉しそうに言った。このときほど、マイクロフトは自身の頭の良さを、観察力を、恨んだことはない。――彼の喜びが、本物だと、気付いてしまったから。
気付けなければ、“この大嘘つきめ”と、彼を罵ることもできたのに。
「随分とお待たせしてしまいました。寒くはありませんか? ミスター・ホームズ」
「問題ない。……この場面に立ち会えたことへの高揚感の方が、ずっと大きいのでね」
「それは良かった」
マグヌセンが、名残惜しげに月下美人を振り返る。そこには萎んだ花びらがあるばかりで、その花が開いたことを示すのは、辺りに漂う香りだけであった。
「美しかったよ」
月下美人に向かってそう呟いて、マグヌセンは来た道を戻り始めた。来たときと同じように、マイクロフトはその後を追う。
そうして、出口も見えてこようかという頃。
マグヌセンが突然立ち止まり、マイクロフトの方へと振り向いた。
「ああ、そうです。――ひとつ、訂正をお願いします」
「何だね」
「写真撮影を禁じているのはこの庭園が美しいからこその趣であり、それを私には理解できないだろうという、貴方の発言を。――マーガレットの庭園を前に、その趣を理解できない人間だと思われたままでいることは、デンマークに生まれた者として……ええ、はっきりと申し上げまして、不快です」
「それは失礼した。――訂正する」
「ありがとう」
*
その日の帰り、マグヌセンを彼の会社へと送る車の中で、マイクロフトは求めていた情報を手に入れた。気がおおらかになっていたらしいマグヌセンはマイクロフトが求めていない情報も提供してくれたが、どうやら今回の事案にまったく関係がないものではないらしい。
「この情報をお持ちのほうが、貴方もより動きやすくなりますよ」
果たしてその情報は、その後のマイクロフトにとって大いに役立つものとなった。なくても困りはしなかったが、あればいくつかのステップを踏み越えて先に進める、そんな情報だった。
ちょっとしたサービスだったのだろう。予想以上の対価を与えてくれたマイクロフトへの。――あの白き庭園、そして目の前で咲き誇ってくれた、月下美人への。
この日のマグヌセンは、驚くほど“人間”だった。
鮫でも、蛇でも、ドラゴンでもない。
ひとりの“人間”が、たしかにそこにいた。
第3話【終】